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古本夜話227 三陽堂、東光社、三星社と菊池山哉

本連載218で、三陽堂、東光社、三星社については稿をあらためたいと書いた。この三社の本を何冊か集めてからにしようと思っていたからだ。しかし別のところで例を挙げ、書いていると本も出てくると記しておいたのだが、それがこの三社にも当てはまり、初めて入った古本屋で三陽堂の本を入手し、古書目録でも三星社の本を見つけ、さらに続けて三星社から刊行された本の問題にも突き当ってしまったので、ここでそれらの中間報告的なものを残しておこう。

所用があって静岡に出かけ、いつもとちがう道を歩いていると、栄豊堂書店という古本屋を見かけた。初めて目にする店で、少しばかり時間の余裕もあったので、期待もせずに入ってみた。すると棚の高いところに書名も定かならぬ汚れた箱入りの本が目に入り、手にとってみた。それで箱の表に久保天随訳『酔人の妻』と記されていたことから、ようやく書名を確認できたのだが、その壊れかけた箱にも、また箱の汚れとは正反対な印象を与える菊判クロス装の瀟洒なデザインの本体にも、出版社名の表記はなかった。それは中扉も同様であり、装丁者名は「JUN-OGURA」と記載されていたけれど、出版社名は奥付に至って判明し、発行者を簗瀬富次郎とする、三陽堂書店だとわかった。古書価は千五百円だった。

この『酔人の妻』はスイスの教育家ペスタロッチの著書で、彼はルソーの『エミール』の影響を受け、同書は女子教育問題に関する重要な一冊とされ、巻末には岩波文庫に収録されている彼の代表作『隠者の夕暮』も付されている。訳者の久保天随は漢詩人、漢学者で、大町桂月と同時代に山岳紀行文を書き、小島烏水にも影響を与えたとされているが、ペスタロッチの訳者としてはもはや忘れられているであろう。

エミール 隠者の夕暮(長田新訳)

だがこの大正六年刊行の一冊において、とりわけ興味深いのは著者でも訳者でも内容でもなく、十八ページに及ぶ巻末広告である。しかもそれが十三ページは三陽堂、五ページは東光社の「発行図書」にあてられていることからすれば、三陽堂と東光社は同じ出版社と考えていいだろう。

これらの「発行図書」を植竹書院の出版物と照らし合わせてみると、三陽堂からドストエフスキイの『罪と罰』などの「植竹文庫」、鈴木三重吉『珊瑚樹』などの「現代代表作叢書」、東光社から谷崎潤一郎『恋を知る頃』などの「現代傑作叢書」、デュマの福永挽歌訳『椿姫』などの「薔薇叢書」が出されているとわかる。ただ一ページ二冊という丁寧な内容紹介も含めた広告から判断すると、これらの叢書の全点が三陽堂と東光社から刊行されたとも思えない。それに売行良好書を狙っての再刊が特価本出版社の戦略のはずで、三陽堂と東光社と社名を分けたのは、資金提供者が異なっていることに起因しているのかもしれない。
潤一郎ラビリンス(『恋を知る頃』所収)
そのようなことを考えていた時、送られてきた古書目録にフローベールの水上斉訳『ボワ゛リー夫人』の三星社版があった。これは本連載220でふれた東亜堂から大正二年に『マダム・ボワ゛リイ』として出され、その後版が植竹書院の『全訳ボワ゛リー夫人』となったようだ。水上訳は英語からの重訳とはいえ、本連載186で既述したように、フランス語からの中村星湖訳は大正五年なので、初めての全訳である。硨島亙の「震災の余滴余稿」(中野書店『古本倶楽部』連載)によれば、水上は帝国大学文科大学英文科で教えを受けた夏目漱石の労を得て、『満州日日新聞』に『ボワ゛リー夫人』を翻訳連載し、それが東亜堂から出版されたという。

ところが『酔人の妻』の巻末広告には東光社版として掲載されていたので、この水上訳は大正時代に少なくとも版元を四回変え、続けて刊行されていたことになる。送られてきた大正十年の三星社版は、当時の新潮社のドストエフスキーなどの外国文学全集と同じポケット判で、本体のクロス装も酷似していた。奥付発行者はやはり簗瀬で、『罪と罰』の近田澄ではなかった。そして巻末の一ページ広告には三星社の「発行図書」として、前述した三陽堂や東光社の翻訳書が並んでいた。これらの事実からすると、三陽堂、東光社、三星社は簗瀬を中心とした植竹書院の紙型と出版物を引き継ぎ、それらをメインとする特価本出版社グループのように思われた。

しかしそれほど間を置かず、そうとばかり言えない事実に突き当たってしまったのである。こちらもまったく偶然だが、白山信仰や白山神社に関して確認するために、前田速夫の『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(晶文社)を再読していた。何とそこに三星社が出てきたのだ。
余多歩き 菊池山哉の人と学問

菊池は山口昌男の『内田魯庵山脈』(晶文社、後岩波現代文庫)において、集古会人脈の中にあって斎藤昌三の趣味誌『いもづる』仲間にして、東京市役所の土木役人で、先住民族の研究を発表したが、その著書は問題が起き、発禁になったと紹介されていた。彼は鳥居龍蔵、喜田貞吉、柳田国男に私淑し、全国の白山信仰を調査し、被差別部落と白山神社の謎を通じて、日本の先住民族を透視しようと試みた民間の学者でもあった。
内田魯庵山脈

菊池の師の一人である喜田貞吉は大正時代に日本地理歴史学会を創立して、『歴史地理』、及び個人雑誌『民族と歴史』も創刊し、古代史研究に考古学や民俗学的方法を取り入れ、部落問題の研究にも取り組んでいた。菊池はその喜田と併走するかのように、大正十二年に最初の著作『穢多族に関する研究』を刊行する。その出版社こそが『歴史地理』の発行所であり、他ならぬ三星社だったのだ。

前田は『余多歩き 菊池山哉の人と学問』の中で、『民族と歴史』が改題された『社会史研究』掲載の同書の一ページ広告をそのまま転載している。それゆえに三星社の住所も神田区表神保町一番地がはっきりと読め、それが『ボワ゛リー夫人』の奥付に示された住所と同じだとわかる。だから三星社は植竹書院の翻訳書、日本地理歴史学会の機関紙ともいえる『歴史地理』、菊池の『穢多族に関する研究』の版元を兼ねていたことになる。とすれば、三陽堂、東光社、三星社のトライアングルは単なる特価本出版社と見なすことはできず、判明した以上に様々な出版シーンに関わっていたとも考えられる。

そしてさらに驚かされるのは「穢多」の言葉をタイトルに含めたことで、水平社から糾弾され、発禁処分となった『穢多族に関する研究』が、昭和二年に温故書店から、『先住民族と賎民族の研究』として刊行されたことである。温故書屋は、本連載16などで言及している梅原北明の盟友坂本篤の阪本書店と同じで、私もそこでふれている「いもづる」絡みの「芋蔓草紙」シリーズを同時代に刊行していたことから、菊池の著作も引受けたと思われる。

幸いにして菊池の著作は批評社が精力的に復刻していて、『先住民族と賎民族の研究』も例外ではない。それに寄せられた礫川全次の解題「甦る先住民族研究」は『穢多族に関する研究』の発禁事情を推理していて、『先住民族と賎民族の研究』の解題も含め、多くの示唆を与えてくれる。その奥付を見ると、確かに発行者坂本篤、発行所温故書屋と記されている。これらの事実から考えると、坂本篤や斎藤昌三はもちろんのこと、集古会の人々や民俗学関係者、アカデミズム内にいる喜田貞吉に至るまで、特価本業界と交流があり、コラボレーションが成立し、とりわけ大正時代の出版を活性化させていたように思えてくる。

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