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古本夜話230 田中英夫『山口孤剣小伝』と京華堂・文武堂『東都新繁昌記』

前回ふれた『山川均自伝』の中に、「赤旗事件が起きるまで」という一章があった。そこで『平民新聞』の筆禍により、服役していた山口孤剣の神田での出獄歓迎会をきっかけにして起きた、所謂「赤旗事件」のことがレポートされている。この明治四十一年の事件ゆえに、山川、堺利彦、大杉栄、荒畑寒村たちは千葉監獄に送られたことで、二年後の大逆事件への連座を免れたといっていいだろう。

山川均自伝

私もかつて「社会主義伝道行商書店」(『書店の近代』所収、平凡社新書)において、小田頼造と山口孤剣による「平民文庫」千冊以上を売り上げた箱車行商を報告しておいた。しかしその後山口の伝記を入手し、彼の著作を教えられたこと、そして『山川均自伝』で山口の名前に出会ったこともあり、それを書いておきたい。その伝記とは田中英夫の『山口孤剣小伝』で、これは「小伝」どころか、〇六年に花林書房から出された六百ページを超える大冊である。古本屋で偶然に出会ったこの一冊にはさまれた田中の一文によれば、『孤剣雑録』百余号をまとめたもので、献本以外の市販本は五十部だという。つまり私が入手した一冊はその文面がはさまれていたことから、献本の一冊だったことになる。

書店の近代 [f:id:OdaMitsuo:20120831083600j:image:h110]
このような出版事情から考えると、田中の『山口孤剣小伝』は少部数の自費出版と見なしてかまわないだろう。田中が初期社会主義研究会会員であることを、同書の「著者略歴」で初めて知った。実は彼と面識もないし、どのような経緯があってなのか不明だが、私は田中から個人誌『洛陽堂雑記』を恵送され、ずっと愛読し、私などと比較にならない、彼の懇切にして丁寧な資・史料博捜に敬意を払ってきた。

この浩瀚な『小伝』を開き、まずは私も拙著に収録した伝道行商のポートレートから始まる口絵写真から見ていくと、記憶にある書影が掲載されていた。それは『東都新繁昌記』で、確かかなり前に同じ古本屋で買い求め、読まずに積んでおいたはずだった。三六判で、表紙に著者名も記されておらず、ただ橋の上にある街燈の絵だけが印象に残っていて、探してみると出てきた。やはり表紙に著者名はなく、中扉に一ヵ所「山口孤剣著」と記されているだけで、奥付の著者名は山口義三とあり、そのためにこの本と孤剣のことが結びつかず、放置されていたのだ。『山口孤剣小伝』を入手しなければ、ずっとそのままになっていたことだろう。
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今回初めて『東都新繁昌記』を読んでわかったのは、孤剣が平民社メンバーの中でも突出した文章家で、近世や明治文学を自家薬籠中のものとしていること、具体的にいえば、寺門静軒の『江戸繁昌記』 や服部撫松の『東京新繁昌記』の大正版を目論んでいたことである。

江戸繁昌記

『山川均自伝』において、自分の文章が下手なので、孤剣から骨と皮ばかりだから、もう少し肉をつけたまえとよく注意されたエピソードを記しているが、両者を続けて読む機会を得て、それをまさに実感してしまう。そのような文体を身につけていたために、明治末期から大正期における社会主義者の「冬の時代」を、田中が詳細にたどっているように、『サンデー』『大阪日報』『二十世紀』『東京毎日新聞』とジャーナリスト生活を続けることができたのだろう。

そうしたジャーナリスト生活とパラレルに、『東都新繁昌記』の「はしがき」に述べられているように、これらは永井柳太郎の勧めにより、大正四年から六年にかけて、大隈侯主宰の『新日本』に連載となり、大正七年に単行本として上梓されている。「畏友」とある永井は総合雑誌『新日本』の主筆兼編集長、早大教授として健筆をふるっていたが、大正六年に早稲田騒動に巻きこまれ、主筆と教授の地位を追われた。『新日本』も同七年をもって廃刊となっているので、この時期にしか発表できなかった東京の同時代レポートであるといっていい。

それは本文にあるように、「書生の神田、軍人の赤坂、官吏の四谷、白首の浅草、落語家の下谷、学者の小石川、相撲の本所、華族の麹町、労働者の深川と、此のやうに十五区の人種をわけて、其の色彩を明白にして来る」といったもので、孤剣が影響を受けた松原岩五郎の『最暗黒の東京』(岩波文庫)といったルポルタージュも踏まえ、それでいて軽やかに東京の現在を描写し、その将来をも予測しようとしている。
最暗黒の東京

それは「書店の神田」の「古本屋」の項にも表われ、次のような予測を提出している。小見出しは目次の「古本屋」と異なり、「お本屋」となっていて、これは誤植であろう。

 神田では学生相手の商売をしてゐれば損をする気遣ひはないといふ。其れかあぬ(ママ)か、神保町から猿楽町にかけての新本屋(あらほんや)、古本屋で産を為した者も少なくない、古本屋の『廉価販売、高価買入』の看板は恰度徳富蘇峰の『貧国強兵論』のやうに、すぐ人して其の矛盾を感せしめるが、其処が商売の賢い処か知れぬであらう。
 (中略)本屋ばかりは繁昌する。(中略)吾人は知る、何十年の後、神田に於て独逸ライプチツヒの書籍商学校のやうな、本屋の小僧や番頭を専門に養成する、簡易実務学校が出来るやうなことはないであらうか、それは必ずしも空想ではないと思ふ。

前半の古本屋の繁昌を象徴するように、同書が刊行された翌々年の大正九年に東京古書組合が設立されているが、後半の「書籍商学校」はその後の実現しなかったことを、孤剣に代わって残念に思ふ。

さて言及が最後になってしまったが、この『東都新繁昌記』は発売元を京華堂と文武堂書店、発行者を平塚長三郎と山添平作として出版されている。小川菊松の『出版興亡五十年』によれば、京華堂と平塚、文武堂と山添も小川と同様に、明治末期から大正期にかけて、大取次から独立した出版兼取次で、共同出版と見なしていい。『東都新繁昌記』の総ルビ編集、表紙に著者名が記されていない三六判の体裁は、これが東京名所案内的実用書として刊行された事情を物語っている。それゆえに五百ページ近くあって、一円三十銭という定価は、かなり多くの部数が刷られ、京華堂と文武堂の取次兼業という業態から、全国的に流通販売され、広く読まれたと思われる。

出版興亡五十年

なお田中の指摘によって、『東都新繁昌記』が九二年に大空社と龍渓書舎の二社から復刻されていることを知った。『東都新繁昌記』と松原の『最暗黒の東京』の関係から考えれば、ぜひ岩波文庫で孤剣も復刻してほしいと思う。

またその後、伊多波英夫の『安成貞雄を祖先とす』(無明舎出版)を読む機会を得た。同書は安成貞雄の詳細な評伝であるとともに、「ドキュメント・安成兄妹」とサブタイトルが付されているように、彼の四人の兄妹の軌跡をもたどった労作で、多くのことを教えられた。そこに資料協力者として、「最も強力な助ッ人」田中の名前も見出された。アカデミズムに属しておらず、独力で資料収集と研究を続け、労作を刊行している田中と伊多波が連携していたことを知り、心温まる思いにかられた。田中のみならず、伊多波の労作もこれから参照させてもらうことにしよう。

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