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古本夜話238 楠山正雄と『国民百科大辞典』

既述しておいたように、楠山正雄は明治末期から昭和十年代にかけて、三つの辞典の編集に携わっている。最初は早稲田文学社の『文芸百科全書』で、これは隆文館から刊行され、後の中央公論社の『世界文芸大辞典』全七巻のベースとなったものである。

そして冨山房が明治三十九年に刊行した『日本家庭大百科事彙』を全四巻に改訂増補する計画が関東大震災後に出され、楠山を主宰とする百科辞典編纂部が組織され、昭和二年に第一巻、同六年に第四巻が完結に至った。『冨山房五十年』が語るところによれば、「実に百科辞典編輯出版の模範」を示したことで、さらに引き続き完全なる百科辞典の編纂に着手することになった。

それが『国民百科大辞典』であり、冨山房の五十周年記念出版事業として、昭和九年に第一巻、同十二年に別巻を発行し、「日本に於ける模範的大辞典」の完了を見ることになると、刊行中の十一年に出された『冨山房五十年』は述べている。ただ実際には十二年に全十三巻完結に至らず、十三年全十五巻となったようだ。それは私の所持する『国民百科大辞典』が第十二巻までであり、十三巻以降は実物を見ていないからだ。

この辞典の何よりの特色は「二段組横書体」を採用していることで、「例言」に「漢字トノ区画ヲ明快ナラシメルタメ、特ニ片仮名交リ文ヲ用ヰタ。コレハ半、国際的性質ヲ有シ、欧文・数字・記号等ヲ頻繁ニ使用スル百科辞典ニ当然許サルベキ形式デアルト信ズル」との説明がなされている。これは『冨山房五十年』によれば、教育関係者と知識階級へのアンケート調査で、八割以上の賛同を得たことで決定したとあるが、楠山の強い編集方針の反映と考えられるし、おそらく同時期に刊行されていた平凡社『大百科事典』との明確な差異化を図るものだったのではないだろうか。それゆえにこの「例言」も楠山自らが記したと見なせるだろう。

それらに関する楠山の見解を聞いてみたいと思っていたのだが、今世紀に入って他ならぬ冨山房から、楠山三香男編『楠山正雄の戦中・戦後日記』が出され、その中に「国民百科大辞典・後にしるす」という第十四巻の署名文が収録されていたので、ようやくそれが実現したのである。なおいうまでもないが、三香男は正雄の三男にあたり、一族の協力を得て、同書の刊行に至ったことが「あとがき」に記されている。それらはともかく、楠山の言葉を聞こう。

楠山正雄の戦中・戦後日記

彼は近代出版史における百科辞典の系譜をたどり、明治二十一年の経済雑誌社の『日本社会事彙』を先駆的出版として始まった「辞書熱」にふれ、その気運の中で冨山房『日本家庭大百科事彙』三省堂『日本百科大辞典』同文館の各種大辞書が育まれ、『大言海』の画期的成功によって、高潮に達した。それらによる百科辞典の機械化、知識の高度化と合理化された印刷工業の効率化を背景に、『国民百科大辞典』も完修を得たと述べ、次のように続けている。

 かやうに、現代の百科辞典は能率的な点で、明治のそれにくらべては、今昔の感があるが、内容に、形態に、未だ必ずしも、これに伴ふだけの新味はない。《国民百科大辞典》は、まず型式において、現代百科辞典の複雑多端な国際的性質に鑑て、国文と欧文と数字・符号とを偕和させるために、左書横組とし、片仮名を主用した。また内容において、古来の類聚事典の伝統による専科辞典に対して、一般教養者の広範な需求に応ずる百科辞典として、一項一解を標榜し、語彙をできるだけ広く自由に採取して、在来の事項辞典の上に、多分に言葉辞典の性質を加味してみた。社会文化の水準がたかまり、専門語が日常語化することが多くなるにしたがって、百科辞典と普遍国語辞典との限界が全く無くならないまでも、狭められるのが、今後の已みがたい趨向であらうと思ふからである。

ここに楠山の編集者歴を反映させた辞典観と、その帰結としての『国民百科大辞典』のコンセプトが十全にこめられているといっていいだろう。この『国民百科大辞典』も繰っていると興味は尽きないのだが、とりわけ印象に残るのは、一枚の表と裏に収録された「アトリエ」と「アパートメント・ハウス」の図版で、前者は四枚の様々なアトリエの写真と設計図、後者は同潤会などの全景、外観、室内写真八枚からなっている。ちなみに平凡社『大百科事典』には「アトリエ」を見出すことはできても、「アパートメント・ハウス」はなく、もちろんそれらの写真も収録されていない。これらのことだけを見ても、『国民百科大辞典』が都市文化を強く反映させているとわかるし、平凡社よりも洗練された編集センスは「模範家庭文庫」と相通じるものがあるように思われる。それはまた平凡社冨山房の出版イメージへとつながっていく問題でもあろう。

それらはともかく、まだ百科辞典の時代が終わっていなかった二十年以上前のことになってしまうが、デザイナーの東幸見と、ある一冊の本をめぐる横組縦組の問題について、意見を交わしたことがあった。彼の意見によれば、一部の雑誌は別にして、日本語は横組に向いておらず、ふさわしくないとのことだった。その頃ワープロは普及しつつあったが、パソコンはまだ全盛となっておらず、確かに縦組の時代でもあったのだ。

しかしそれから四半世紀が過ぎ、インターネット全盛を迎え、このブログもそうであるように、まさに横組の時代を迎えてしまったことになる。楠山のいう「複雑多端な国際的性質に鑑て」、『国民百科大辞典』と同様の横組の時代になったのだ。彼の言はグロバリーゼーションの時代を迎えてと言い換えることもできよう。それゆえにすでに八十年前に横組の百科辞典が編纂されたことは、画期的なことであったのかもしれない。

また『国民百科大辞典』の第十三巻から十五巻までも見てみたいと思うが、うまく古本屋で出会えるだろうか。

なおその後『楠山正雄の戦中・戦後日記追補』も出されている。

楠山正雄の戦中・戦後日記追補

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