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古本夜話250 近田澄と甲子出版社『精神修養逸話の泉』、「浪六叢書」、『浪六全集』

本連載218227で、三星社とその発行者の近田澄、三星社の別名と見なしていい三陽堂と東光社に関してふれておいた。その後三星社と近田の名前が出てくるシリーズを見つけたので、それらを書いておきたい。

そのひとつは高島平三郎編『精神修養逸話の泉』であり、甲子出版社から刊行されている。私が購入したのはその第一、二編だが、『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)によれば、これは大正十二年に各定価二円、二十二編が出されたとある。実はこの発行者が他ならぬ近田澄で、甲子出版社の住所は神田区表神保町一番地となっている。この住所は三星社、三陽堂、東光社と同じであるので、甲子出版社もまたこれらの出版社の別名と見なせるだろう。

全集叢書総覧新訂版
また奥付には近田と甲子出版社に加えて、大正十二年八月「版権譲渡」、同十三年五月発行、定価一円八十銭と記され、B6判の判型は同じだとしても、前述の発行年と定価とは異なっている。とすれば、これらは大正十三年版と見なすべきなのだろうか。

編者の高島平三郎は明治、大正期の児童心理学者で、学習院や日本女子大などの教授を歴任しているが、田中英夫が『洛陽堂雑記』で詳細に追跡しているように、洛陽堂の河本亀之助の恩師であり、洛陽堂が明治四十三年創刊の『白樺』の発行所となったのは、学習院に在職し、洛陽堂の顧問的立場にあった高島との関係からだとされている。しかし大正文学史において、著名な出版社の洛陽堂にしても、その隆盛は長く続かず、大正六年に『白樺』の発行から手を引いた頃から苦境に陥り、『白樺』を含めた在庫を古本屋に放出する事態に追いこまれ、同九年に河本は亡くなっている。その後しばらく河本の弟が古本屋を営みながら、洛陽堂を継続させたという。これらのことについては私も「洛陽堂河本亀之助」(「古本屋散策」95、『日本古書通信』)10年2月号所収)で既述している。

これらの事実をふまえ、歴史上の著名人物の啓蒙的エピソード集であるこのシリーズに、高島が寄せている「序」を読んでみると、第一編は「洛陽堂主人」との文言も見え、第二編は編集に絡んで洛陽堂の著者でもある「加藤一夫君」の名前も出され、前者は大正三年、後者は同七年に編まれているとわかる。とすれば、この『精神修養逸話の泉』はタイトルは異なっているかもしれないが、元々は洛陽堂の出版物で、それを甲子出版社が「版権譲受」して出版に至ったのではないだろうか。洛陽堂の全出版物が判明していないことが悔やまれる。しかしこの「版権譲受」の実態を示すと思われる奥付捺印だが、これは「KNK版権所有」とあり、「KNK」の意味が不明で、詳細はつかめないにしても、表に出ない資金提供者のことを表わしているのかもしれない。

ふたつ目は大正十五年発行、村上浪六の菊半截判『原田甲斐』で、巻末広告に示された「浪六先生傑作叢書」のうちの一冊だと思われる。これは著作兼発行者を村上信、すなわち浪六とし、発行所を浪六叢書刊行会とするもので、これらの住所はともに下谷区下根岸十一番地となっていることから、浪六の自宅がそのまま発行所であるとわかる。そして発売所として三星社、武揚堂、大阪の松雲堂が挙げられている。明治三十年に小島棟吉によって創業された武揚堂は、陸軍参謀本部陸地測量部発行地図の取次、軍隊用教科書の出版を行なっていたことを考えると、松雲堂も大阪において同じような業態にあったと考えられる。脇阪要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』(大阪出版協同組合)の中に、大阪図書出版業組合員として、「石塚良三(松雲堂)」の名前が見出せるが、それ以外に言及はない。

ただ浪六は堺の出身であることと、明治三十年代に関西に移り住んだことも作用してか、青木嵩山堂や駸々堂から多くを出版していることも絡んでいるのかもしれない。

もう少し浪六の著作の出版をたどってみると、この予告も含めて二十編に及ぶ「浪六叢書」をはさんで、二つの『浪六全集』が出されている。それらは大正二年の至誠堂と昭和二年の玉井清文堂版で、前者は全二十六巻、後者は全四十四巻であり、ちょうど「浪六叢書」が狭間にだされているとわかる。至誠堂版は未見だが、後者の円本に属する玉井清文堂版は第二、三巻の二冊が手元にあり、その奥付を見ると「著作権所有者、発行者兼印刷者」は玉井清五郎となっている。第二巻『上田力』の奥付の下には明治三十三年初版発行、清文堂印刷部と記されているので、浪六の初期の作品を刊行していたことになる。上田力は浪六の出世作『当世五人男』の一人である。
[f:id:OdaMitsuo:20121112125445j:image]『当世五人男』
想像するに至誠堂、浪六叢書刊行会、玉井清文堂へと至る流れは、関東大震災による、取次兼出版の至誠堂の倒産に端を発しているのではないだろうか。それによって至誠堂版の代わりに、「浪六叢書」が浪六と周辺の関係者によって企画刊行された。しかし発売所の三星社、武揚堂、松雲堂は二十編という長尺物ゆえに、有力な取次でもあった至誠堂ほどの流通販売力を有していなかったことで、「浪六叢書」はそれほど成功しなかったどころか、負債さえも生じさせたのではないだろうか。そのこともあって、浪六は玉井清五郎に著作権をすべて譲渡し、「浪六叢書」の負債を清算したとも考えられる。

もちろん浪六が大正十一年に絶筆して、その後政財界に関係し、米相場、大連取引所設立、石油業界に身を置いたと伝えられているので、それらのための資金が必要だったのかもしれない。いずれにしても、全四十五巻に及ぶ著作兼譲渡は、相当な金額に及んだはずであり、浪六がそれを必要としていたことは事実であろう。本連載222でも、内外出版協会の特価本『浪六傑作集』の販売について既述している。

大正時代には「修養書」がブームで会ったと伝えられているし、それに便乗して全二十二編に及ぶ『精神修養逸話の泉』も刊行され、昭和円本時代に、明治後半に人気を博した浪六の大部の全集も出版された。だが両者とも、もはや語られることもなく、それらの出版を担った版元に関する言及もなされない。しかしそこには甲子出版社と近田澄、三星社と浪六、玉井清文堂を見てきたように、正規の出版史に記されていない様々な事柄が秘められているにちがいない。

なお浪六の息子については、今回のテーマと重なる「村上信彦と『出版屋庄平』」(『古本探究』所収)などを書いているので、こちらも参照されたい。
古本探究

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