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古本夜話252 芦谷芦村、日本童話協会、『模範実演童話』

大正時代に鈴木三重吉の『赤い鳥』に続いて、『良友』『金の船』『童話』『コドモノクニ』といった童話、童謡雑誌が創刊され、新たな児童文学の幕開けとなり、それらの流れが昭和円本時代の『小学生全集』と』『日本児童文庫』へと向かったことを既述しておいた。

 コドモノクニ 上 コドモノクニ 下 (復刻、アシェット婦人画報社)

(『子どもの本・1920年代』)

そのような動向を背景にして、本連載237でふれた冨山房の「模範家庭文庫」なども企画出版されていたのである。これらの雑誌と書籍に関しては、『子どもの本・1920年代』(日本国際児童図書評議会、1991年)がピクチャレスクにして横断的に網羅する一冊となっている。

それらの雑誌の中にあって、大正十一年に児童文学に関する初めての研究誌『童話研究』が芦谷重常(芦村)を中心として、日本童話協会から刊行されている。幸いにして、日本童話協会は『日本児童文学大事典』に立項されているので、それを引いてみよう。

 日本童話協会 にっぽんどうわきょうかい 団体。童話の学術的、本質的研究を目的をした団体。一九二二(大一一)年五月、神田神保町において「童話研究」の発行、会則など決定。神田三崎町において創立記念講演会を開催。二二年七月機関誌「童話研究」創刊。当初の理事長は芦谷重常、理事は清水かつら、熊沢鱗、藤波紫斎、藤沢衛彦、前田慶次の五名であった。三二年七月より雑誌形式の講義録「綜合童話大講座」を発刊、のちに『童話の理論と実際』『童話史』として単行本化された。全国各地に支部を設け、口演や講演をはじめ各事業を通して児童文学、文化の普及につとめた。関東大震災後一時休会のやむなきに至ったがのちに復興。(後略)

その後の軌跡を簡略に記しておけば、昭和十七年の芦谷の死去とともに休止し、戦後の二十一年に藤沢衛彦を理事長として再発足したが、いつまで存続したのかは不明である。

この日本児童協会が刊行した本を、最近になって入手している。それは発行所を日本童話協会出版部、発行者を飯塚徳太郎とする『模範実演童話』で、菊判二段組、六百五十ページに及び、昭和四年に刊行されている。編纂者は芦谷の他に内山兼堂、樫葉勇の三人で、巻頭に付されている写真からすると、内山と樫葉は日本童話協会の理事だとわかる。

同じく『日本児童文学大事典』の芦谷を見てみると、『日本近代文学大事典』の短い立項と異なり、著書三冊の解題を含め、二ページに及んでいて、児童文学の視座からの芦谷の位置づけがうかがわれる。なお後者の立項は樫葉によるものだが、ここでは樫葉に従うことにする。

日本近代文学大事典

芦谷は明治十九年松江市に生まれ、基督教伝道者となるために聖書学院に入学するが、それが自己の使命ではないと悟り、中退して童話の執筆や研究に接近する。それは小学生時代における巖谷小波のお伽噺との出会いに端を発し、日本童話協会を設立し、童話研究とともに口演童話を普及させ、口演童話家の育成につとめたとされる。

その一方で『日本児童文学大事典』の大藤幹夫による立項が長きに及んでいるのは、芦谷が一貫して「童話とは何か」を追求し、その方法論として民族学、教育学、心理学を援用し、学際的研究を通じて童話学を樹立しようとした試みを追跡し、彼の多くの著書をたどっているからでもある。そのような視点ゆえに、同時代に起きていた創作童話や童謡は対象とされず、また「語る」童話としての口演童話の実践的研究に力点が置かれたために、松村武雄の比較神話学を通じての童話学研究とも対照的なものと見なすことができよう。

それは『模範実演童話』にも表われ、とりわけその「序」に顕著であり、それを聞いてみよう。

 童話は子どものために一日もなくてはならぬ心の糧である。いかに童話を話すべきか、いかに童話を活かすべきか、さうしていかによき童話の資材を見出すべきかといふことが、真面目に子どもの教育に当るものの、必然心に起きる問題である。

それゆえに編纂者は「童話をもつて生命とし、その研究と普及をもつて使命とし」、「童話の資材の提供」をするために同書の刊行に至ったとも述べている。そして百編余の「模範実演童話」が収録され、それらは芦谷たち三人を始めとして、四十人以上に及び、これらの人々も日本童話協会の会員であろうと推測される。

その内容を見てみると、冒頭に置かれた巖谷小波のラジオ放送「奉祝童話雪月花」が皇族の誕生を祝した木花咲耶姫をテーマとしているように、それに続く芦谷の「種まきと国曳き」も「古事記物語」からとられ、他に芦谷が西洋の物語や童話に基づく作品を収録しているにしても、『模範実演童話』はナショナリズムの色彩が強いように感じられる。

ここで留意すべきは「序」において、同書がまず「全国の教育家」に向けて刊行されていることだろう。文学や演劇の新しい動きと同様に、児童文学もまた西洋の影響下に始まっていたことは明白であり、それに対して、実際の学校現場がスムーズに受け入れるはずもなく、そこに芦谷と彼の個人色が強いという日本童話協会が出現したのではないだろうか。そしてナショナリズムにベースを置く口演童話が学校現場における大きな支持を受け、普及していったように思われる。そのことは芦谷の最初の著作が『教育的応用を主としたる童話の研究』(勧業書院、大正二年)であることも影響しているのだろう。

そのような流れの中にあって、大正十一年に日本童話協会が発足し、その機関誌『童話研究』が創刊される。昭和四年刊行の『模範実演童話』の奥付裏の日本童話協会出版部の広告を見ると、『童話研究』が月刊雑誌と表記され、芦谷の『童話学講話』に続いて、続刊として六冊が各月刊行されるとの記載がある。

日本童話協会にいつの間にか出版部が設けられ、機関誌が月刊となり、主宰者の芦谷の著書が次々と出されるようになったことは、同協会の大正から昭和にかけてのめざましい成長とその出版の隆盛を告げているのだろう。しかし奥付に取次記載がないことからすれば、会員制の直販シェアが高かったと推定される。

本連載18でふれたファシストを演じることになる下位春吉は既述したように、大正六年に『お噺の仕方』 (同文館)を上梓している。これは下位もまたこの時代に、芦谷とは異なる高等師範系列の口演童話運動に加わっていた事実を伝えている。

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