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古本夜話254 村越三千男『大植物図鑑』と河野書店版『全植物図鑑』の謎

特価本業界は近代出版史に残る大きなプロジェクトや辞典、図鑑類にも関係している。昭和九年に八木敏夫『日本古書通信』を立ち上げると同時にめざしたものは、古書の相場情報の全国的発信とリバリューであった。その一方で、彼は六甲書房をもスタートさせ、質の高い特価本を古本屋ルートで流通販売することを試みていた。それは内外書籍の在庫を引き打受けることからはじまっていた。内外書籍は所謂外交販売出版社で、取次や書店を通さず、学校や職域を営業することで、『広文庫』『古事類苑』などのシリーズ物を売っていたが、行き詰ってしまい、それらの在庫を六甲書房が安く買い切り、リサイクル市場を形成するに至っている。
日本古書通信 11月号(『日本古書通信』11月号)

最初の近代百科事典というべき『広文庫』全二十冊は物集父子の二代にわたる営為によって、大正七年に刊行の運びとなるのだが、昭和に入ってその縮刷版を内外書籍が出版し、その在庫を六甲書房がフォローしたことで、戦後の名著普及会における復刻へとつながっていったのであろう。

だがこれらの事実は紀田順一郎『日本博覧人物史』ジャストシステム)の、物集父子と『広文庫』に関する「踏み迷った文献の森」の中でも言及されていない。それは牧野富太郎『牧野日本植物図鑑』にふれた「四〇万点の植物標本」でも同様である。もちろん紀田の同書がサブタイトルに示されているように、「データベースの黎明」を描くことにあり、彼の『生涯を賭けた一冊』(新潮社)と同じく、大きな出版プロジェクトの成立にテーマが求められているので、流通販売までの言及を望むことは無い物ねだりともいえるが、とりわけ、牧野の植物図鑑類とその周辺をめぐる謎は、それらも含んで深いように思われる。
日本博覧人物史 牧野日本植物図鑑 生涯を賭けた一冊

それに最初に気づいたのは俵浩三で、彼はまさに『牧野植物図鑑の謎』平凡社新書)を著わし、私もそれに触発され、「村越三千男編著並描画『大植物図鑑』について」(『古本探究2』所収)という一文を書いている。俵は、牧野の図鑑出版に村越なるライヴァルが存在し、両者は大正十四年に『日本植物図鑑』『大植物図鑑』をほとんど同時に発売していることに注目し、牧野の謎に迫っていくのだが、拙稿は村越の側からそれを追っている。そして牧野が植物図鑑のルーツとされ、その一方で村越がどうして忘れ去られてしまったのかの一端を私もたどっておいた。しかしそこで提出できなかった視点を、ここで述べておきたい。

牧野植物図鑑の謎 古本探究2

牧野の大正十四年の『日本植物図鑑』は北隆館から出版され、昭和十五年の『牧野日本植物図鑑』も同様である。北隆館は戦前の四大取次のひとつで、明治四十一年に牧野の最初の『植物図鑑』を刊行した参文社の社主が死亡し、その負債ゆえに版権が大正三年に北隆館に移り、それで牧野の図鑑といえば、北隆館という関係が始まったのである。当時の取次は出版も兼ねていたし、牧野の図鑑は資本力と流通販売の大きな後ろ盾を得たことになる。

それに対し、村越の『大植物図鑑』は、関東大震災によって壊滅的被害をこうむった博進館の和出徳一が独力で組織した大植物図鑑刊行会から出されている。『大植物図鑑』は菊判、本文千百余ページ、非売品扱いの予約出版による会員制で二十円、牧野の『日本植物図鑑』は四六判、本文千三百余ページ、十円、図版は村越が四千に対して、牧野は二千五百である。大判で図版が多いのが前者で、コンパクトで安価なのが後者ということになり、俵の調べによれば、両者は発売後、数年で五版を重ねている。

しかし問題は昭和に入ってからだと考えられる。俵も遠回しに述べているように、完成後、使い易さ、造本などからすると、村越の『大植物図鑑』のほうが好評だったと判断されていいのだが、村越は忘れ去られ、牧野は昭和十五年の『牧野日本植物図鑑』によって、植物図鑑の牧野の名前を不動のものとするに至っている。ただその巻末に次のような「警告」が牧野の名前で掲載されていることに留意すべきだろう。俵の著書より再引用する。

 著者の応諾を経ずして本書の図を縦(ほしい)ままに使用するをゆるさぬ。従来無断で我が図を剽窃し、或は変造して自分の著書に乱用せし不徳破廉恥の無学漢があって、其の書が世間に流布している。今後我が此の書に対し此の如き不正行為を敢て為る者あらば、乃ち寛仮する所なく直ちに其の姓名を世間に公表し或は適宜の処置を執る事あるべきを茲に予告し置く。

俵はこれを、牧野が村越を念頭に置いて書いた文章ではないかと推理している。俵は村越が『大植物図鑑』以後、昭和三年にそれをコンパクトに再編した『集成新植物図鑑』(大地書院)に続き、昭和八年に『全植物図鑑』(マツキ書店)、同十六年には『大植物図鑑』の縮刷版(梧桐書院)などを刊行していることに求め、彼の多彩な植物図鑑出版に牧野の挿図の無断引用があること、それが「警告」の一文だと見なしている。

しかし私は牧野の「警告」を別の視点から見てみたい。俵も村越がどこまで関与したか不明だと述べているが、『全植物図鑑』のことを考えてみる。俵が挙げているのは松島種美編のマツキ書店版で、同タイトルで日本博物研究会版もあると付記されている。実はこの日本博物研究会編を持っていて、それは河野書店の発行で、昭和八年に初版、同十三年七月十一版と半年ごとに重版していて、著者は日本博物研究会、奥付の検印は検定教材普及会と記載がある。河野書店は何度も既述してきた成光館と同じで、マツキ書店も同様の特価本業界の主たるメンバーであることを考えれば、この『全植物図鑑』は造り本に属し、マツキ書店版と河野書店版があったことになる。ただ私の所持する後者は「普及版」とあるので、マツキ書店版とは異なっているかもしれない。

河野書店版には「編者識」として、「自序」が置かれ、次のような文言が見える。

 本書に載スル所ノ図版、幷ニ之レガ説明中ニハ、村越三千男先生著大植物図鑑を初メ、其他ノ著書ヲ或ハ参照シ、或ハ引用セル所頗ル多数アレドモ、之レニヨリテ多大ナル資料ヲ得タルコトハ、唯ニ編著ノ為メノミナラズ、布テハ広くク学界ノタメ将又研究者ノタメニ好資料ヲ供給セラレタルコトヽシンズルト同時ニ、茲ニ謹デ同先生ニ対シフカク感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。

三六判九百余ページに及ぶ『全植物図鑑』と村越の『大植物図鑑』を比較してみると、前者の図版は明らかに後者のそれに酷似しているが、添えられた文章は異なり、当時の著作権の判断からして、この一冊が牧野のいうように「剽窃」に当たるかどうか、すれすれのところにあるのではないだろうか。それは牧野の『日本植物図鑑』に関しても同様だと見なせよう。これが昭和三十年代まで重版され続けてきたという事実は、そのことを示唆していると思われる。

私の推理では牧野と村越の関係から考慮して、牧野が「我が図を剽窃し、或は変造して自分の著書に乱用せし不徳破廉恥の無学漢があって、其の書が世間に流布している」というのは、この松島種美、もしくは日本博物研究会編『全植物図鑑』のことをさしているのではないだろうか。村越の『大植物図鑑』の継続出版は、関東大震災で被害を受けた小出版社では支えられるものではなく、特価本業界に出版金融を仰ぎ、そのバーターとしてマツキ書店や河野書店版を生み出すことになったとも考えられる。それに従事したのは『大植物図鑑』の編集や図版の製作に携わった者たちで、またこのコンパクト版は学校採用ルートにも開かれていたゆえに版も重ねられ、彼らの生活費や図鑑プロジェクトの負債の返却にも当てられたのではないだろうか。

それを村越は黙認していたが、広く学校方面でも使われるようになったこともあり、牧野は看過できず、前述の「警告」をしたためたのであり、それは村越に対してではなかったと思われる。学校で使われた証拠として、日本博物研究会=「検定教材普及会」の検印、及び前所持者の学年とクラス、名前が記されていることが、その証明となろう。このように特価本業界の出版物も謎と同様に奥行も深い。

なお近年、大澤得二によって「村越植物図鑑と牧野植物図鑑の比較:村越植物図鑑の再評価」という論文も発表されていることを付記しておく。

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