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古本夜話257 大川屋の講談本『大岡裁判 小間物屋彦兵衛』

前回ふれた大川屋について、ここで一編書いておきたい。既述しておいたように、私は「講談本と近世出版流通システム」(『古本探究』所収)の中で、明治二十年代の大川屋の出版物を具体的に取り上げているのだが、その後四十年代のものを二冊入手しているからでもある。

古本探究

その二冊とはやはり講談本で、一立齋文車の『大岡裁判 小間物屋彦兵衛』、揚名舎桃玉の『勇士仇討吉岡浅之助』である。前者は奥付に明治三十一年初版、四十三年に二十版と記載されていて、関根黙庵の『講談落語今昔譚』(東洋文庫)は講談界の高潮の時代に関して、明治の初めから二十年代が最も旺盛だったと述べているが、その傾向は明治後半まで保たれていたことを、『大岡裁判 小間物屋彦兵衛』のロングセラー化は物語っているのだろう。それは講談本のロングセラーを網羅したと思われる巻末の二百点に及ぶ「大川屋小説目録」も示唆している。
講談落語今昔譚

残念ながら『勇士仇討吉岡浅之助』は奥付が欠如し、発行年月日が不明であるけれど、先の「同目録」にも掲載されているので、初版はともかく、これも四十年代に刊行されたと考えられる。これらの二冊の「講演者」の一立齋文車(奥付によれば本名は春日岩吉)と揚名舎桃玉の名前は黙庵の著書に見えていないので、二流どころの「講演者」なのかもしれない。それでもロングセラーの「講演者」だったことは、先の拙稿で参照した明治二十年代の大川屋の講談本の巻末広告に名前が見つかることから推測できる。もちろん彼らの具体的なプロフィルはつかめないにしても。

それはこの二冊に「序」を寄せている竹陰居士なる人物も同様である。だがそれゆえにこそ、その「序」を引いておくべきだろう。『大岡裁判 小間物屋彦兵衛』の「序」で、竹陰は古今の芝居、狂言、講談、小説の裁判物(さばきもの)に関して、名をとどめているのは大岡政談で、奉行といえば、越前守となっている「作り物」の流れを述べ、次のように続けている。句読点を補って引用してみる。

 然りながら作物(さくもつ)にせよ時代違ゐの物にせよ、世に大岡裁判(さばき)として知られたる物を故(こと)さらに今に至りて打消すの要もなければとて、大川屋の主人(あるじ)は一両年以前より此の大岡さばきの講談連記物の出版を計り已に十数巻を現はし、今又玆に小間物屋彦兵衛の伝を出だす。其の事の如何に面白く編中の人物如何に善なると悪なるとが読者を怒らせ或は泣かせ喜こばせるかは、読去(よみさ)り読来(よみきた)るの間に自づから判明すべく、仮(たと)へて申さばクルヽヽと様々の者の出るは回り燈籠の如くなるべし。

この「序」は明治三十一年春に「述」とあるので、初版時に寄せられた文言だとわかる。『大岡裁判 小間物屋彦兵衛』は句読点のない30字×13行組で、地の文も会話の部分もまったく改行は施されず、百九十ページにわたって進行していく。そのストーリーを簡略にたどってみる。小間物屋彦兵衛のところに、博奕打にして海賊の弥平次の甥の弥七が住みこみで働くようになるが、弥七は女郎屋に小間物を売ったことから、自分も通うようになり、店の金を使いこみ、その上、問屋から仕入れた五十両相当の品物の代金を横領し、姿を消してしまう。それをめぐる裁判にあって、弥平次も召喚され、さらに加えて様々な人物たち、つまり「善なると悪なると」が「回り燈籠」のように登場し、大岡裁判へと収斂していくのである。だが句読点も改行もなく、延々と続く語りを読んで行くのは苦痛でしかないことも付け加えておくべきだろう。

しかし明治時代を通じて、このような講談は近代文学とは異なるかたちで、しかも生産、流通、販売も異なる回路によって、読者を獲得し続けてきたのである。生産に限っても、作者は講演者、編集者は速記者と見なすことができる。おそらくこのような講談の物語祖型と語りやベースを背景にして、大正二年から『都新聞』で連載が始まる中里介山の『大菩薩峠』が好評を博し、それを導火線のようにして、所謂時代小説が次々と生まれていったと考えていい。

大菩薩峠

この『大岡裁判 小間物屋彦兵衛』の第二十版の刊行年である明治四十三年の近代文学状況と確認してみると、石川啄木『一握の砂』、泉鏡花『歌行燈』、長塚節『土』、谷崎潤一郎『刺青』などが出版されている。これらの初版復刻を見ると、いずれもがすばらしい造本と装丁で、新しい文学と出版の門出を物語っているかのようだ。それらに比べて、講談本は泥臭い表紙のザラ紙で、その和本仕立ての造本はいかにも古めかしく映る。前回講談社の『講談全集』に関して、昭和初年にはそれらの講談本の収集が困難になっていたとの証言を引いておいたが、大正に入り博文館の『長編講談』全百冊の刊行などはあったにしても、講談に代わる新しい時代小説の出現を見て、講談本の新作の出版は衰退へと向かったのであろう。
一握の砂 歌行燈 土 刺青

そうした転換についてもふれておく必要があるだろう。それはここで取り上げた大川屋の二冊の講談本と無縁でもないからだ。実は「序」と同様に、この二冊は速記者が共通していて、それは今村次郎で、その名前は講談本や竹陰と異なり、黙庵の著書にも見えている。それは立項されていないけれど、『日本近代文学大事典』にも索引には掲載がある。この今村が、講談から新しい時代小説への転換のキーパーソンを計らずも務めたといえる。

日本近代文学大事典

これまで見て来たように、明治期を通じて講談本は一定の読者を伴っていた。その講談を中心とする『講談倶楽部』が明治四十四年に講談社によって創刊された。そしてそれが大正二年にその頃人気を集め初めていた浪花節特集号を刊行したことで、事件が持ち上がる。当時講談や落語の速記者として有力者だった今村二郎が今後『講談倶楽部』に浪花節を載せるな、そうでなければ、講談や落語の原稿は供給しない、また今村以外の原稿を買うなと野間清治に強硬に申し入れたのである。その時代において、講談の原稿はすべてを速記者から買い求めることで編集が成り立っていたので、今村の原稿が入手できなければ、『講談倶楽部』のみならず、他の娯楽雑誌にしても、体裁をなさないという事態に追いこまれたことになる。

そこで野間が考えていたのは今村に代わって、「新講談」=新しい時代小説を、小説家や文学者に依頼することであった。それが功を奏して、大衆文学としての時代小説の勃興を見るのである。これらの時代小説についてはまた本連載で後述する事になろう。しかしここで記憶しておいてほしいのは、大川屋に代表される全国出版物卸商業協同組合に属することになる出版社が、講談本の出版を隆盛に導き、また時代小説のそれ以後の歴史にも絶えず併走してきたという事実である。

なお最後に付け加えておけば、東洋文庫に辻達也編『大岡政談』全二巻があり、「小間物屋彦兵衛」と「解説」が収録されているが、いうまでもなく大川屋本と同一ではない。

大岡政談

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