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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論 1

 
「混住社会」というタームが使われ始めたのは一九七二年度の『農業白書』からだとされている。

七〇年代初頭の日本の農業は、世界に例を見ない六〇年代以降の高度経済成長の激しい照り返しを受け、非農業部門との土地や水などの資源利用をめぐる競合の激化、地価の高騰、農業就業者構成の老齢化、後継者の離脱と不足などの多くの深刻な問題が生じていた。

その問題のひとつが「混住社会」であり、それをタームの発祥の地である七二年の『図説農業白書』(農林統計協会)が次のように分析している。

今日の農村社会は、都市化が広範に浸透しつつあるなかで地域的に異なった様相を示しながら複雑な変ぼうを遂げつつある。大都市近郊地帯では、土地の農業的利用と都市的利用の混在や通勤兼業農家の増大等を通じて農村社会は専業農家兼業農家および非農家の混住する地域社会へと変ぼうしつつあるばかりでなく、動植物の生育環境の悪化などに伴い農業生産活動の円滑な遂行を困難にする要因が増大している。このような傾向は、都市化の進展等に伴い都市近郊地域からそれ以外の地域にしだいに波及しつつある。

これは六一年に公布された農業基本法に基づき、国会に提出された「農業の動向に関する年報報告」の一節である。ここから「混住する地域社会」=「混住社会」なるタームが立ち上がっていくわけだが、官製用語としても、この「混住社会」という言葉は、その後の日本社会を考えるキーワードのひとつに数えることができるほど、有効なコンセプトを保ち続けたといえるだろう。もちろんそれは文章も含め、分析や叙述に官僚的スタイルが投影されているにしても、「今日の農村社会」に起きつつあったドラスティックな変化に対し、真摯な眼差しが向けられていたことによると思われる。

「混住社会」という新しい言葉が生み出された背景には、都市近郊において、農家と非農家が混住する地域が急増し、七〇年の農林省の農業集落調査によれば、農家と非農家の割合が46対54で、非農家のほうが多くなっていたことが挙げられる。六〇年には61対39だったのである。そしてこの傾向は七五年には30対70という結果に至り着いていた。

柳田国男が昭和四年に著わした『都市と農村』(『柳田国男全集』29ちくま文庫)というタイトルが象徴しているように、都市と農村は経済的に対立するものであり、社会的にも空間的にも分離されていた。それは戦後も変わることなく続いていたが、六〇年代になって『白書』の指摘するごとく、「地域的に異なった様相を示しながら複雑な変ぼうを遂げつつある」事態を迎えていたことになる。
『柳田国男全集』29
長きにわたって農業を中心とし、農家を主要な構成員とする均一な地域社会であった農村が変貌していくこと、それを具体的に示すならば、農村の風景の変化に表われていた。つまり田や畑だった場所に工場や会社が建設されたり、団地や建売住宅地域が開発されたり、あるいはスプロール的に様々な職種から形成されるサラリーマンのマイホームやアパートが建ち並んでいくことを意味していた。そうした風景の転換は六〇年代から広範に起き始め、七〇年に至って農村は流入人口のほうが多くを占めるようになった。それは風景の混住でもあった。その結果、かつての農村は変貌し、都市でも地方でもない、あるいは村でも町でもない郊外=混住社会を出現させつつあったといえる。

それらの現象とパラレルに、敗戦後には1600万人を超えていた農業就業人口は七五年には急減し、700万人を割ってしまい、皮肉なことにそれは農業を保護するための農業基本法の成立と歩みをともにしたといえよう。そのかたわらで、戦後の日本社会はこれまで体験したことのない世界へと離陸し始めようとしていた。

それは消費社会化である。五〇年に50%近くを占めていた第一次産業就業人口は七〇年代を迎えて20%を割り、その代わりに第三次産業就業人口に至っては七三年に50%を超え、日本もまた欧米先進国と同様に消費社会化し、ソフト・サービス社会へと向かっていた。しかも七三年とはオイルショックが起き、重工業を中心とする高度成長期に終止符がうたれた年でもあり、それは脱工業化社会への移行をも示唆していた。

その消費社会化は車社会の進行ともパラレルで、七五年には2世帯に1台の乗用車保有となり、その他の耐久消費財と同様に家庭の必需品と化していったのである。つまり混住社会=郊外の誕生は、車をベースとする消費社会化を伴っていたことになる。それらを背景にして、ファミリーレストランを嚆矢とするロードサイドビジネスが次々と簇生していく。これは駐車場を備えた郊外型商業店舗の総称であり、当初は異なっていたファストフードやコンビニも、郊外を主たる出店の場へと移し、それらに続いて、様々な物販やサービス業が加わり、郊外は八〇年代を通じて、大衆消費社会を造型していくことになる。

それゆえに八〇年代になって、かつて田や畑だった郊外の幹線道路の風景は、アメリカを出自とするロードサイドビジネスで埋め尽くされてしまい、ここでも様々な物販やサービス業の混住現象が起き、ロードサイド商店街の急速な形成を見ることになったのである。それは膨大な消費者たちを召喚し、誕生させた。この郊外消費社会の成長と隆盛が、従来の町の商店街を壊滅へと追いやる要因となったことはいうまでもないだろう。そして九〇年代になると、地域によってはこの混住社会の住人として、日系ブラジル人たちも組みこまれていった。それも労働者、生活者、消費者としてだった。多彩な容姿の彼らの出現は郊外のアメリカ的風景と相俟って、農村だった過去が異国のような感慨をもたらした。

このような七〇年代に顕著になった混住社会から始まる郊外の物語と歴史について、私は一九九七年に『〈郊外〉の誕生と死』青弓社)で詳述しておいた。それは農村→混住社会→郊外の誕生→ロードサイドビジネスの出現→郊外消費社会の到来という流れをたどり、その流れに伴って現われたアメリカ的風景と郊外文学の発生に言及し、バブル経済の終焉と郊外消費社会の飽和、過剰消費社会に迫りつつある少子高齢化と人口減少によって、郊外も緩慢な死へと向かいつつあることを示しておいた。その「あとがき」を記している時に、郊外のデッドエンドとそのゾーンを暗示するかのように、ヤオハンの倒産と酒鬼薔薇事件が起きてもいた。それから十五年が経ったことになる。
〈郊外〉の誕生と死
そして他ならぬ二〇一一年の東日本大震災原発事故によって、郊外は死へと追いやられてしまったのである。それゆえにあらためて、郊外の混住社会のバックヤードには原発が控えていたことに気づかされたのだ。各電力会社による原子力発電所原発が次々と建設され、営業運転を開始したのも七〇年代であり、それは郊外の誕生と併走していた。いってみれば、原発との混住を背景にして、郊外の成立と郊外消費社会の成長はあったとも考えられる。とすれば、郊外の誕生とは、死に至る危機を最初から内包していたことになり、それを、3.11は明らかにし、それが東日本のみならず、日本全体の郊外の構造であることをも露呈させてしまったことになる。

拙著を上梓した九七年の時点では、続けて『〈郊外〉の誕生と死』の前史を書くつもりでいた。それは十九世紀後半のフランスの百貨店の誕生から、二十世紀前半のアメリカのスーパーの展開による消費社会化、戦後の郊外の膨張とロードサイドビジネスをテーマとするものであった。

それに加えて、青弓社の矢野恵二から、こちらも拙著で一章が割かれている郊外文学論に関する続編を依頼されていたのである。しかし図らずも、たまたま出版状況論を書いたことによって、そちらのほうに時間をとられてしまったこと、それに続いて十九世紀の消費社会と近代の欲望を描いたゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳に没頭したこともあって、そのまま長きにわたる中断という事態にならざるをえなかった。

しかしダイレクトな体験ではないにしても、3.11を経てきたこと、私も福島の人々と同様に、原発の近傍にあり、もし大地震が起きれば、同じような災厄に見舞われることが予想される。それは原発を近傍にして、しかもその被害が及ぶ近傍とは30キロ圏と想定されているので、郊外で生活している人々すべてに共通している危機だと見なせよう。そしてこれもあらためて、原発における都市と農村の構図を想起させるのだ。

それらをふまえ、もう一度、郊外文学=混住小説を考えてみたい。拙著では六七年の安部公房『燃えつきた地図』新潮文庫)から八三年の島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』新潮文庫)までを論じておいたが、そこでもれた作品、それ以後の作品をたどることで、あらためて混住社会と郊外文学の意味を考察してみようと思う。

燃えつきた地図 優しいサヨクのための嬉遊曲

次回へ続く。