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古本夜話258 岡村書店と大畑匡山『現代文描写辞典』

『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』によれば、昭和初期円本の大量引き受けとその特価販売を通じて、それまで日本橋、浅草、下谷の下町を中心としていた赤本、特価本業界は神田地区へと進出していったとされる。そしてそれぞれの東京地域に加え、大阪、名古屋、横浜などの五十以上の、昭和九年の『日本古書通信』に示された「全国見切本数物卸商一覧」の掲載がある。こうした動向によって、「従来の講談、通俗小説、絵本、実用書に加えて、きわめて広い範囲の出版分野の展開」を示していくことになる。

日本古書通信 11月号

そのような流れには特価本業界ならではの著者や編集者が伴っていたと考えられ、本連載2728などでも硯友社につながる春江堂絡みの人脈の一端を示しておいた。そしてそれらの人脈は各社がそれぞれに抱えていたと推定される。そのことに関連して、今回は岡村書店のことを取り上げてみる。

岡村書店は先の「全国見切本数物卸商一覧」に、東京浅草区下平右衛門街の岡村盛花堂として見えているが、明治中期の創業で、学参の出版なども手がけ、発行者の岡村庄兵衛は通称「岡庄」で親しまれたという。ただ彼は昭和二十五年に亡くなり、その長男は実用書の梧桐書院の代表でもあると伝えられている。

それらのことはともかく、手元に大畑匡山著『現代文描写辞典』があり、これは昭和六年に岡村書店から刊行されている。新書判七百ページ、上製箱入で、その「序」はつぎのように始まっている。

 従来の文章では、真実といふことに重きを措かなくて唯々美く書かうとばかりした。従つて実地とは懸け離れても無暗に綺麗な文字を使つたり、誇張沢山の語句を綴り合せたりなどして、文章の能事畢れりとしてゐた。即ち形式が本位で、文章の為めの文章であつたが、之に反して新い文章は内容が本位で、美く書くよりも適切な真実な書き現し方を目的とし、素の書き現し方が真実に近ければ近いほど良い文章とせられてある。この書き現し方を描写といふ。つまり新文章の新文章たる所以は描写の一点にあるので、描写即ち文章、文章即ち描写といつても差閊へないほどである。

これは西洋文学経由のリアリズムというよりも、写生文の意味も含めた新しい写実主義と解釈してかまわないように思われる。そしてこの視点から「人物篇」の「外面描写」として、男、女、顔、服装、表情、動作、「内面描写」として、真理、気分、神経、感覚に関する文章が「現代文」=近代文学と翻訳小説から抽出され、各アンソロジーとして提出されていくのである。それは同様の構成で「素描篇」「天象篇」「地象篇」と続いていく。計らずも「内面描写」の後のくるのは「風景描写」といってよく、「内面」と「風景」の発見こそが近代文学にもたらされたものであることを、まさにこの『現代文描写辞典』は告げていよう。

それもあって作品選択は明治後半から大正時代のものに集中していることから、この定価一円三十銭の辞典は造り本ではないにしても、特価本出版社に特有な焼き直し本と見なすべきだろう。それを示すように、岡村書店の「著作権所有」という印刷が奥付にある。

『現代文描写辞典』の奥付から、「著者」大畑匡山が「編者」大畑徳太郎とわかるのだが、巻末広告にはもう一冊の編著が挙がっていて、それは『式辞演説大観』である。こちらは四六判函入、八百余ページ、定価一円五十銭で、「近代名士のなせる式辞と演説を集め豊富なる作例と共に相俟つて、実に其種類五百三十余を五百五十余頁に盛れる堂々たる大冊」と謳われている。この『式辞演説大観』も定価からして、『現代文描写辞典』と同じ印税が発生しない出版物だと考えられる。

かなり長い間、大畑匡山=大畑徳太郎の名前に留意しているのだが、いまだもって出会えないし、どのような人物なのかの手がかりもよくつかめない。その後『日本奇風俗』の著者であることなどは知り得たけれども。しかし、本連載181などで、新潮社の「思想文芸叢書」にふれ、加藤武雄が多くの代筆をしたこと、大正時代を迎えて多くの地方出身の独学者たちが突出したリテラシーを身につけ、出版の世界に現われてきたことを既述しておいた。大畑もそのような一人ではなかっただろうか。彼からも加藤などと同質のニュアンスが伝わってくるように感じられる。

また、本連載222223において、大町桂月編著、『文章宝鑑』『書翰文大観』が大町ではなく、別の代作者と編集者によって編まれたのではないかとの推理を提出しておいたが、特価本業界こそはそのような人材を必要とする出版業界のアジールでもあったのだ。それは学歴も学閥もなく、優れた編集力とリテラシーを備えていれば、比較的容易に参入できたからだと思われる。
[f:id:OdaMitsuo:20120713145225j:image:h160]『作例軌範文章宝鑑』

『現代文描写辞典』の巻末広告に桑田春光著『実用趣味手紙文講話及文範』が出され、これは四六判天金、千百余ページ、定価一円五十銭となっている。この桑田も大畑と同じような人物ではないだろうか。こちらも、本連載244で取り上げた冨山房のベストセラー『書翰文講話及文範』をモデルとし、編まれたもので、辞典、文章宝鑑、書簡文、式辞演説本などが特価本業界の定番であった事実を告げていよう。

なお巻末には本連載255でふれた尾山篤二郎編『大正一万歌集』、佐佐木信綱『和歌の話』、溝口白羊訳註『改訂訳註徒然草』も掲載され、岡村書店の出版の実態を教えてくれている。尾山の第一歌集とされる『さすらひ』は大正二年に岡村盛花堂から出されていて、その多彩な出版の一端を知らしめている。

なおこれは紀田順一郎の教示によるのだが、水野葉舟に『新描写辞典』(大正四年)があるというので、大畑のものもそれを範としているのかもしれない。

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