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混住社会論4 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)

ベッドタイムアイズ


前回桐野夏生の『OUT』を論じるにあたって、2002‐3年版『首都圏ロードサイド郊外店便利ガイド』(昭文社)を手元に置き、参照していたことを既述しておいた。これはロードサイドビジネス900チェーンの、首都圏における2万店近くを掲載したものだが、それを繰っていると、否応なく米軍基地の存在が目に入ってくる。『OUT』の主たる舞台である武蔵村山市は福生の横田基地と隣接しているし、神奈川県を見れば、広大な横須賀、座間、厚木基地、米軍の住宅専用地区としての相模原ハウジング、根岸ハイツなどがあり、それらの周辺は、これもアメリカを出自とするロードサイドビジネスが明らかに旺盛な増殖を示していて、両者の密通と共存をほのめかしているかのようだ。

OUT 上 OUT 下 [f:id:OdaMitsuo:20121213145020j:image:h110]

「在日米軍基地完全マニュアル」とサブタイトルが付された、サブカルチャー研究会編『フェンスの向こうのアメリカ探検』(サンドケー出版局)の中に、次のような一節がある。「郊外の閑静な住宅地の隅に、商店街を抜けた路地の向こう側に、滅多に人の訪れないうっそうとした森の中に、そして、都心の一等地に米軍施設は何の前触れもなくこつ然と現われる」と。それに付け加えれば、東京首都圏の郊外消費地帯の近傍に米軍基地が必ず位置し、つまり郊外消費社会と基地は混住しているのだ。

フェンスの向こうのアメリカ探検  

戦後文学における基地と郊外について、拙著『〈郊外〉の誕生と死』(青弓社)で、小島信夫の『アメリカンスクール』(新潮文庫)や村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(講談社文庫)に言及しておいた。だがそこでふれられなかったのが、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(新潮文庫)と山田詠美の『ベッドタイムアイズ』であり、前者はその物語のクロージングにおいて、唐突な一節「ちょうど、一台のカーキ色をしたトラックが、走りすぎていく」が挿入され、「横浜には、米軍基地があります」との注が付されている。それはヴァニティな八〇年代の日本の消費社会がアメリカとの共存によって支えられているという認識に他ならず、田中が横田基地を意識せざるをえない郊外の一橋大学生であったことは偶然ではない。
〈郊外〉の誕生と死 アメリカンスクール 限りなく透明に近いブルー なんとなく、クリスタル

だがここでは後者の『ベッドタイムアイズ』を取り上げてみる。この作品こそは横須賀基地を脱走してきた黒人兵士のスプーンと日本人ジャズシンガーのキムの出会いと同棲と別れを描いている。「ディック」や「コック」が語られ、「プッシィ」や「ファック」も頻出し、実際に「ファック」の場面も何度も反復されているが、そこに『ベッドタイムアイズ』のコアを見てはならない。それは物語の表層の出来事であり、真のテーマ「Crazy about you」という言葉に象徴される、スプーンとの関係を通じて様々に揺らめくキムの心的現象をカレードスコープのように浮かび上がらせることにある。言い換えれば、山田詠美は一貫して、その特有な「girl meets boy」の愛のかたちとセクシュアリティの揺曳を描いてきたといえるのではないだろうか。

山田詠美に関しては、拙著で『晩年の子供』(講談社文庫)、本ブログで、「消費社会をめぐって」8『学問』(新潮文庫)にすでにふれ、そのような彼女の資質のよってきたるところが、戦後の初期の郊外の少女だったことに求められるという推論を提出しておいた。それと同時に、彼女と同時に在校したわけではなかったけれど、山田詠美が私の小学校の後輩であることも。つまり彼女と私は初期の郊外の風景を共有していたことになる。

晩年の子供 学問

それゆえに彼女のセクシュアリティの行方が、農村や漁村の少年から米軍の黒人兵に向かっていくことを、それなりに理解できるように思われる。しかしそのように理解していても、『ベッドタイムアイズ』の中に、スプーンとキムの関係の中に、アメリカと日本、米軍基地と戦後日本社会のメタファーを、強く読み取ってしまうのだ。この作品は次のように始まっている。

 スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい。ただし、それは私の体を、であって、心では決して、ない。私もスプーンに抱かれる事は出来るのに抱いてあげる事が出来ない。何度も試みたにもかかわらず、他の人は、どのようにして、この隙間を埋めているのか私は知りたかった。

この書き出しの数行に『ベッドタイムアイズ』の物語のコアが凝縮されているし、その後の展開もそれに沿って進んでいく。だがこの「スプーン」をアメリカ、「私」を日本に言い換えると、それは敗戦から現在まで続いているアメリカと日本の関係を象徴し、物語っているようにも思えてくる。それに何よりも「スプーン」は横須賀基地の黒人兵士という設定であるし、二人は「基地のクラブ」で初めて出会い、その立入禁止のボイラー室で「ファック」するのだ。

そして二人の関係が始まり、それが「私」のモノローグとともに進行していく。

 スプーンとも、もう馴れ合い始めている。彼とのメイクラブの後はいつも甘い敗北感が残る。

 ダイスが転ってゲームが始まったような気がする。だけど、こんな深刻なゲームが今までにあったかしら。

 まったく彼は私の教育者たる地位を築き始めていた。

 スプーンの小さなおもちゃ(トイ)になる事を楽しみ始める。トイは気まぐれなキッズにたたきつけられ、もてあそあばれるように、その痛みを楽しみ始める。

 彼はファックしか方法をしらない!
 どうやってやるんだろう。どうやってお前を気分良くさせられるんだ。やる以外にどんな方法があるってんだよう。きっとスプーンは心の中でこう叫んでいるに違いない。

まだまだこうしたメタファーに充ちた文章はとめどなく挙げられるが、このくらいにしておこう。このような「私」のモノローグをたどっていくと、『ベッドタイムアイズ』が書かれた後の九〇年代になって、日米構造協議に続いて、アメリカから「年次改革要望書」が出されるようになり、それらとかさなってしまうかのような錯覚感に捉われる。

これは拙著『出版業界の危機と社会構造』(論創社)でも言及しておいたけれど、第二の敗戦や占領につながるもので、それはしかもアメリカと日本政府の「馴れ合い」によって進行し、「甘い敗北感」どころではない「苦い敗北感」をもたらした。このような「深刻なゲーム」が「教育者」然としたアメリカ主導によって行なわれ、日本は「おもちゃ(トイ)」のようにもてあそばれ、「ファック」=犯されてしまったともいえるのだ。私たちはそうした敗北の風景の中に佇んでいるのであり、前回『OUT』の物語とはその一端であることを忘れてはならない。
出版業界の危機と社会構造
しかしこのような「私」のモノローグとは対照的に、「スプーン」に向けられた彼女の客観的眼差しをも記しておくべきだろうし、それは山田詠美が初期の郊外で少女時代に学習した、混住社会における支配と被支配の関係、その性を絡めたメカニズムに対する洞察に起因しているようにも思える。「スプーン」は「素適な体」で「粋(クール)」だけど、ハーレム育ちの黒人で、脱走兵という設定であり、彼の体臭は「不快でないのでなく、汚ない物に私が犯される事によって私自身が澄んだ物と気づかされるような、そんな匂い」なのだ。それでいて、彼は「滑稽」で、「悲しい思いをして来た」存在のように見えた。それゆえに「大胆不敵な不良の女」は「あんたの女(ユアガール)」になるのだが、次第にどちらの「付属品」なのかわからなくなっていく。それは「マリア姉さん」が介在することで、さらに複雑な様相を呈してくる。

とすれば、「スプーン」と「私」に、アメリカと日本の関係を読み取ることは単純すぎる誤解でしかないようにも考えられる。「マリア姉さん」や「どこかの大使館」、刑事らしい外国人と日本人の五人の男女は、何のメタファーとすべきなのだろうか。

他の作品も同様であるのだが、この山田詠美の処女作『ベッドタイムアイズ』は、八〇年代においてしか出現しなかった奇妙な難解さに充ちたエレガントな小説であり、それはひとつの混住の新しいかたちを提示していたからなのかもしれない。それらを含め、『ベッドタイムアイズ』はまだ十全に読み解かれていないようにも思える。

次回へ続く。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1