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古本夜話270 泰光堂、河内仙介、和田芳恵『作家達』

昭和十七年に特価本業界の出版社である泰光堂から刊行された和田芳恵の『作家達』は彼の処女短編集で、実質的な小説デビュー作といっていいだろう。しかしその後、『作家達』は再刊されておらず、『和田芳恵全集』河出書房新社)などへの作品収録はなされているにしても、自らをモデルにした雑誌編集者津村啓三を主人公とする八編の連作は、この本でしか読むことができない。和田の『一葉の日記』講談社文芸文庫)所収の「著者目録」によれば、その前年に評伝『樋口一葉』(十字屋書店)を出しているので、和田にとっては二冊目の著書ということになる。

一葉の日記

それはこの作品集が出版社と作家たちをモデルにした生々しい一冊であり、しかも戦時下において書かれたという事情も絡んでいると思われる。だが所収の「格闘」が昭和十六年の芥川賞候補作に挙げられ、新潮社を辞めるきっかけとなったわけだから、和田にとって記念すべき一冊であることは間違いない。この「格闘」は同人雑誌に発表されたもので、その事情も同じく所収の「転心」に描かれている。

あらためて考えてみると、昭和戦前期の出版社と作家たちの実情を浮かび上がらせた短編連作は同様のものが見つからず、和田の『作家達』だけではないだろうか。しかもその視点は、雑誌記者が「もう人間性を喪失してしまつた一箇の原稿取りの機械」(「転心」)であることに向けられ、「輪転機に隷属した小さな生きものとしての作家や記者」を描き出そうとしている。それらのモデルたちは複合化されているので、『作家達』を読んだだけでは断定できないが、和田は昭和四十二年になって、『作家達』の補注ともよべる同時代の『ひとつの文壇史』(新潮社)を著わし、両書を照らし合わせて読むと、それぞれの登場人物たちが重なってくる。
ひとつの文壇史 (講談社文芸文庫版)

その例として、最初の短編「水葬」を挙げてみよう。津村は東洋堂の大衆雑誌『さくら』の記者で、その小説特集号のために、上野からの夜行列車で花田次郎の原稿を取りに出かけるところから、「水葬」は始まっている。花田は大正時代に著名な作家だったが、円本時代の印税で家を建て、残りは銀行に預けるという健全な生活に入っていた。それから小説も寡作となり、大家と見なされながらも、努力を忘れているうちに、書けなくなってしまっていた。その花田のところに、津村は原稿を取りにいこうとしているのである。だが出がけに社長の増田五平から、自分が面倒を見ている有望な青年の原稿を汽車の中で読むようにと手渡され、「読んだら、棄ててしまつてもいいんだ」といわれた。その小説は「鮎」と題されていたが、新人らしい作者の名前は記されていなかった。その作風は花田を感じさせ、優れた作品だった。

予想が当たり、花田の原稿は一枚も書き上げられていなかった。編集長から催促の電話が何度もかかってきた。津村は困り果て、花田に新人の原稿を見せ、「あなたが使へるところは遠慮なく使つて下さい。責任はわたしがおひます」と話す。そして旅館を出て、夕方戻ると、花田の原稿はできていた。題も枚数もまったく同じだった。津村は編集部に連絡し、近来の傑作なので、巻頭に据えるように頼んだ。だが「何か、怒りに似たかなしみが、水のやうにふたりを浸していた」。津村は花田に気づかれないように、新人の原稿を橋の上から破り捨てた。花田の名誉を守るためだった。

これは津村が和田、東洋堂が新潮社、『さくら』が『日の出』、増田が佐藤義亮をモデルにしているとすぐにわかるが、問題の花田と新人と作品のことは『ひとつの文壇史』を読むまで見当がつかなかった。和田がそこで明らかにしている事実によれば、花田は久米正雄、新人は山岡荘八、「鮎」は「折鶴」である。

このようなモデル小説ゆえに、新潮社や文壇に対する影響を考えると、文芸書出版社は刊行をためらったと見なしていい。そこで特価本業界の出版社の泰光堂に持ちこまれたのではないだろうか。和田は『作家達』の「あとがき」で書いている。

 私は自分の書いた小説が、つまらなく思へてくるのであつたが、私の小説を高く感じとつてくれて、河内仙介さんが斡旋の労をとられ、泰光堂の鈴木吉平さんに出版して貰へるやうになつた事は、無名の新人である私にとつては望外の事であつた。立岡栄一さんが煩はしい編集事務に当つてくれた。

河内仙介『ひとつの文壇史』にも一度だけ出てくるが、長谷川伸の出遅れた弟子で、長谷川が手を加えた『軍事郵便』で直木賞を得ているという。確認してみると、それは昭和十五年で、堤千代『小指』と同時受賞している。しかしこれは想像だが、川内は特価本業界にも関係があり、それで他の文芸書出版社では出せない、和田の処女出版が実現の運びになったのではないだろうか。

『三十年の歩み』の中に、鈴木泰光堂も出てくる。昭和十年頃から『作家達』の奥付住所と同様の下谷区御徒町で、見切本数物卸商を営み、文理科学協会名で児童書の出版も兼ね、後に五十嵐文庫堂を買収したとの記述がある。そして出版統制時代を迎え、泰光堂は本連載258で取り上げた岡村書店、金井信生堂、斎藤崇文堂と合同し、俌育出版社となり、空襲下の児童慰安用に出版した「空襲対策絵本」は一点十五万部の配給用紙割り当てを受け、長野市で印刷、製本し、東京に送ったが、同社は昭和二十年二月に消失し、出版活動も不可能になってしまった。

だが泰光堂も含めて、各社は戦後を迎えて元の社名に復帰し、各自の出版を再びスタートさせている。それらはともかく、戦前の泰光堂は『作家達』に続いて、やはり和田の『十和田湖』も出しているし、それら以外にも文芸書を刊行していると思われるけれど、詳細は判明していない。

なおこの一文も五年ほど前に書いたものなので、アップするにあたって検索したところ、高橋輝次[古書往来25][直木賞のすべて 余聞と余分]にも、『作家達』への言及があることを知ったので、付記しておく。

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