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混住社会論9 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)

長いお別れ



残念なことに、前回のハルバースタム『ザ・フィフティーズ』レイモンド・チャンドラーの名前は出てこないけれど、彼の『長いお別れ』も五四年に出版された、紛れもない五〇年代の作品なのである。
それは消費社会とハードボイルド小説が無縁でないことを告げているし、日本においても、チャンドラーの影響を受けた村上春樹や、多くのミステリー作家や冒険小説家たちが台頭してきたのが八〇年代であることも、偶然ではないと思われる。
ザ・フィフティーズ 上

それらのことはともかく、早川書房の「ポケットミステリ」の清水俊二訳はとても懐かしい。これを最初に読んだのは確か中学三年の頃だった。それに村上春樹ではないが、私も上京するにあたって携えて行った一冊が、この『長いお別れ』に他ならなかった。その後何冊も人にあげたりしてきたが、古本屋で見るたびに購入したこともあって、今でも同じ洋酒のボトルとグラスが描かれた油絵を表紙画とした一冊を持っている。おそらくこの絵はギムレットを表象しているのではないだろうか。それゆえに『長いお別れ』は、このポケミス版と不可分だとの思いが今でも抜けていない。

その奥付には昭和35年5月3版、定価は280円とあった。『ハヤカワ・ミステリ総解説目録』で確認すると、初版は一九五八年十月とされているので、静かに版を重ねつつあるといった売れ行きだったように思われる。私が読んだのは六〇年代半ばになってのことだから、初版以来すでに七、八年が経過し、多くの読者を得ていたはずだ。本連載6の大江健三郎の『飼育』のところで、大江の文体の呪縛力にふれたが、その意味と内実は異なるにしても、チャンドラーの清水俊二訳も同様だったのである。
ハヤカワ・ミステリ総解説目録

同じ「ポケミス」のチャンドラーの田中小実昌訳『高い窓』『湖中の女』にはそのようなカタルシスをまったく感じることがなく、別の作家の物語のように思えた。そうしたこともあって、今になって考えれば、どれほど理解できていたのか心許ないが、すっかり魅せられてしまったのである。そしてその後も長きにわたり、原書も含めて、繰り返し読み続けてきたことになる。

しかし『長いお別れ』がアメリカの五〇年代の産物にして、消費社会の物語であることに気づいたのは、初めて読んでから四半世紀も過ぎた八〇年代の後半になってからのことだった。そうはいっても、『長いお別れ』に五〇年代と消費社会がダイレクトに描かれているわけではないし、ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』を彷彿させる事柄が目に見えて織りこまれているわけではない。ただ八〇年代に日本に出現した郊外消費社会を経験したことによって、『長いお別れ』の中にそのようなアトモスフィアを感じ取ってしまったとでもいうべきだろうか。物語につきまとっているのは、イギリスを出自とするチャンドラーの、アメリカ消費社会に対する批判的視線のように思われたからだ。

それに加えて、『長いお別れ』の舞台も郊外であり、主人公の私立探偵のフィリップ・マーロウも郊外の住人として設定されている。だが郊外を舞台とするといっても、それは前回ふれたレヴィットタウンのような郊外ではなく、アイドル・ヴァレーという、清水訳では「郊外の高級住宅地」、「the rich suburbs」であり、カリフォルニアの五〇年代の、所謂ブルジョワ・ユートピア的郊外と見なせるだろう。そしてチャンドラーはこれらの「the rich suburbs」がイリーガルな開発によって造成されたことをほのめかしているし、その住民たちも、これもただ「人間」と訳されているが、「the local crowd」となっているから、「特殊な群衆」と解釈することも可能である。

その数年前の五〇年にデイヴィッド・リースマンの、原題をThe lonely crowd とする『孤独な群衆』(加藤秀俊訳、みすず書房)が出版されていることとも関連しているのではないだろうか。そこで描かれていたのは、台頭するマスメディアと消費社会に包囲された「孤独な群衆」の姿に他ならなかった。
孤独な群衆

チャンドラーはそれがレヴィットタウンのようなありふれた郊外だけでなく、「the rich suburbs」もその特殊な色彩に覆われていることを、『長いお別れ』の物語を通じて露出させていく。そしてその住人に他ならない、億万長者のポッターに次のような発言をさせている。これは消費社会についての発言と見なせるので、『〈郊外〉の誕生と死』でも示しておいたが、今一度私訳で引いてみる。
〈郊外〉の誕生と死

 「金というのは特異なものだ。(中略)何でも金次第となる社会では、金が命であり、金でものを計ろうとさえする。金の力をコントロールすることは難しくなる一方だ。人間はいつも金に動かされてきた動物だった。(中略)一般大衆は疲れているし、怯えている。疲れ、怯えている人間は理想を持つ余裕がない。まずは家族を養わなければならない。この時代になって、社会と個人のモラルのどちらもが恐るべきほど衰退してしまったことを見てきている。そこで生きる人々は品性の欠如に慣らされているので、彼らに品性を期待してもしょうがない。それに大量生産の時代に品質を求めることはできないし、望まれていない。品質がよければ長持ちするからだ。それに代わるのが流行だ。今まであった型をわざと流行遅れにさせようとするぺてん商法だ。大量生産というものは、今年売ったものが一年後には流行遅れになるように思いこませないと、来年は商品を売ることができない。我々は世界で最も美しい台所と最もきれいで明るい浴室を使っている。だがその何とも美しい台所で、アメリカの一般の主婦は食べるに価する料理をつくれない。あれほど輝かしい浴室はわきが止め、下剤、睡眠薬、それから化粧品屋と呼ばれているいかがわしい事業の商品陳列所と化している。我々は世界で最も立派な装置をつくっているんだよ、ミスター・マーロウ。しかしその内実ときたら、ほとんどジャンクだ」

”最後の一文の「ジャンク」は清水訳で「がらくた」となっている。それを原文で示せば、“The stuff inside is mostly junk.” である。その言葉から、私たちは郊外消費社会がもたらした食に関して、ジャンクフードなる呼称を想起することもできる。

しかしこの発言が五〇年代のアメリカ消費社会に対するチャンドラーのひとつの視線であっても、これが『長いお別れ』のテーマだと見なすべきではない。この言葉を発した人物は、他ならぬ「the rich suburbs」を象徴する格差社会の勝者で、カリフォルニアにまったく似つかわしくない、フランスの古城を模したグロテスクな邸宅の所有者として設定されている。つまりこの発言に見られる眼差しは、ヨーロッパ階級社会からアメリカ大衆消費社会へと向けられたものだと考えていい。そこでマーロウは次のように答えている。

 「あなたのいわんとするところはよくわかりましたよ、ミスター・ポッター。あなたは今の世の中の生活様式が気に入らない。それで自分が持てる力を使って、私的な場所に閉じこもり、大量生産時代の始まる五十年前の生活をできるかぎり再現させようとしている。あなたは億万長者にはなったけれど、それはあなたに頭痛の種をもたらしただけだ」

このポッターとマーロウの会話のやりとりの中に、主たるテーマではないにしても、アメリカの五〇年代の郊外消費社会の問題が露出している。ポッターは「the rich suburbs」を代表し、マーロウはレヴィットタウンのようなありふれた郊外の側に位置づけられていると見なすこともできよう。またここにふたつの郊外の格差、しかもポッターの資産も、レヴィットタウンに象徴される郊外の開発によってもたらされたものだと推測されるので、両者は支え合う構造を有している。

それゆえに『長いお別れ』の物語の舞台として、否応なくアメリカの五〇年代の豊かな郊外消費社会が設定され、その病巣が「the rich suburbs」に突出して発見され、それらをめぐる事件の数々が、物語を綾なすファクターを形成することになる。それらを追跡し、謎を明らかにしていくのが、私立探偵マーロウが担わされた役割ということになろう。

そのような『長いお別れ』の物語、舞台背景、時代を考えてみると、チャンドラーがこの作品の中で、T・S・エリオットの名前を三回にわたって引き、一度はエリオットの『荒地』まで挙げ、さらにフレーザーの『金枝篇』にも言及があることも気にかかってくる。チャンドラーがイギリス出身であることは前述したが、エリオットは逆にアメリカ生まれで、イギリスに帰化し、第一次大戦後の荒廃したヨーロッパの精神風土を『荒地』として描いたとされる。その第1章は「死人の埋葬」とある。そのよく知られた始まりを、東京創元社版の西脇順三郎訳で引いてみよう。
荒地

 四月は残酷極まる月だ
 リラの花を死んだ土から生み出し
 追憶に欲情をかきまぜたり
 春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ

そして何行か後に、「僕たちは廻廊で雨宿りして/日が出てから公園に行ってコーヒーを/飲んで一時間ほど話した」と続いている。

『長いお別れ』におけるマーロウとテリー・レノックスの出会いは四月でなかったにしても、マーロウはレノックスを自分の郊外の家に連れていき、コーヒーを飲ませ、送っていく。それからしばらくして再会があり、レノックスの死の知らせが届く。すなわち『長いお別れ』『荒地』と同様に、「死人の埋葬」から物語が始まっていくのである。

エリオットの『荒地』は彼自身も注で述べているように、フレーザーの『金枝篇』における古代社会のフォークロア研究に多くの影響を受けている。それをふまえ、チャンドラーは『荒地』『金枝篇』の書名を挙げていると思われる。それらに重ねてさらに想像すれば、チャンドラーは第二次大戦後の五〇年代のアメリカ消費社会に「荒地」を見て、自らの『荒地』版としての『長いお別れ』を構想したのではないだろうか。
金枝篇

そして『金枝篇』の代わりになったのは、リースマンの『孤独な群衆』を始めとして出されつつあった、現代の神話分析ともいえるアメリカ社会学の文献だったのではないだろうか。有能なビジネスマンでもあったチャンドラーがそれらに無関心だったとは考えられないし、読んでいたはずだ。それに文学であれ、社会学であれ、同時代の優れた作品や著作は必ず連鎖し、共鳴していると思われるからだ。

これらのことはフランク・マクシェインの『レイモンド・チャンドラーの生涯』『レイモンド・チャンドラー語る』(いずれも清水俊二訳、早川書房)には何の言及もないけれど、ここで仮説として提出しておくことにしよう。

レイモンド・チャンドラーの生涯 レイモンド・チャンドラー語る

なお『長いお別れ』における「Jap」=日本人も含めたカリフォルニアの混住社会問題、〇七年に出された村上春樹訳『ロング・グッドバイ』にはふれられなかったことも付記しておく。

テキストはPenguin books 1974年版を使用した。
ロング・グッドバイ  The long goodbye (95年版)

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1