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混住社会論10 ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)

ロリータ (大久保康雄訳、新潮文庫) ロリータ 若島正訳、新潮文庫


ナボコフ『ロリータ』については『〈郊外〉の誕生と死』でも少しだけ言及しているのだが、この連載でも再びふれるべきか、いささかためらっていた。
〈郊外〉の誕生と死

しかしこの小説がチャンドラーの『長いお別れ』と同様に、一九五〇年代のアメリカを舞台とし、ほぼ同時代に書かれていたこと、それにチャンドラーがイギリスを出自としていたように、ナボコフもまたロシアを出自とし、亡命者としてロンドン、ベルリン、パリを経て、一九四〇年代にアメリカへと渡っていることからすれば、二人とも異邦人としての視線で同時代のアメリカを見ていたことになる。
長いお別れ
さらにこれは既述しているが、奇しくもアメリカが消費社会化したのはその前年の三九年であり、それから戦後にかけて、アメリカの風景がドラスティックに変わり始める時期に、ナボコフは渡米してきたのである。ロシアやヨーロッパとまったく異なるアメリカの消費社会との出会いは、ナボコフに大きな驚きをもたらしたことは想像に難くない。

これらのことに加えて、刊行からちょうど半世紀を経た二〇〇五年に、若島正による『ロリータ』(新潮社)の新訳が出され、これまで新潮文庫版の大久保康雄訳と異なる、ナボコフ自身が訳したロシア語版も参照した邦訳が提出され、それをあらためて読み、この小説のひとつの主題がアメリカ消費社会を描くことにあったと実感したからだ。またアメリカがそのような社会であったゆえに、『ロリータ』がベストセラーになり、ナボコフに思いがけない富と名声をもたらしたということも含めて。だからここでも書くことにしたのである。

ナボコフは同書巻末所収の「『ロリータ』と題する書物について」で、この小説の執筆過程において、「アメリカを発明するという課題に直面していた」とし、そのことを通じて「アメリカ作家になろう」とし、それゆえに主要な舞台として「アメリカのモーテルを選んだ」という意味のことを語っている。これは「旧世界」のロシアやヨーロッパを経た目で、「新世界」のアメリカのノマド的消費社会を、新たに発見する試みと見なせるだろうし、そこでそのノマド性の体現に他ならないモーテルが選ばれたともいえる。そして両世界の混住小説となる。なぜならば、モーテルこそは「俗物の品のなさほど刺激的なものはない」とされるアメリカ消費社会の象徴だったからである。

ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』で、「ホリデイイン」と題し、モーテルに関して一章を割いていることを既述しておいた。この「ホリデイイン」という近代的なアメリカのフランチャイズシステムによるモーテルチェーンが誕生したのは五一年で、それはハイウェイが続々と整備され、自動車旅行が増えてきたことを背景とし、「道路を愛し、道路に頼るアメリカ人が徐々に増えるなかで、これは起こるべくして起こった現象だった」とハルバースタムは述べている。このモーテルの誕生と全米規模の増殖こそは、まさにそれ以後のロードサイドビジネスの範となったであろうし、アメリカ郊外消費社会を成長させるバックヤードでもあった。

ザ・フィフティーズ 上

そしてこのロードサイドのモーテルが『ロリータ』の主要な舞台ともなり、郊外における「覗く人」のような中年男ハンバートと「ニンフェット」としてのロリータの、車でアメリカを転々とする生活を可能にさせる。つまりモーテルは『ロリータ』をロードサイドノベルたらしめる装置となる。それは『ロリータ』でも告白されている。「というのも、道筋に沿ってずらりと並んだ数知れぬモーテルが空室ありますとネオンサインでふれまわり、セールスマンであろうが、脱獄囚であろうが、性的不能者であろうが、家族の一行であろうが、はたまた堕落した精力満々の二人連れであろうが、どんな人間でも泊めてやろうとしていたのだから」。それはまた「清潔で、小綺麗で、安全な隠れ家であり、睡眠や、口論や、和解や、満ち足りぬことを知らない道ならぬ恋にはもってこいの場所だった」からだ。

そのようなモーテルと郊外消費社会を移動する車での旅の中で、ロリータの実像が描きだされていく。

 天真爛漫さと欺瞞、魅力と下品さ、青色のふくれ面と薔薇色の笑いを合わせ持つロリータは、そのときの気分次第で、まったく頭にくるような小娘になることもあった。(中略)知能面では、うんざりするほどありきたりの女の子だとしか思えなかった。甘くて熱いジャズ、スクエアダンス、べとべとのチョコレートシロップをかけたアイスクリーム、ミュージカル、映画雑誌など、こういったものがお気に入りのリストに必ず入ってくるやつだ。(中略)彼女はまるで天からのお告げを信じるように、《ムーヴィー・ラブ》とか《スクリーン・ランド》に載っている広告や忠告を信じていた―(中略)もし道路沿いの看板に「当ギフトショップにぜひご来店を」とあれば、私たちは必ずそこに入って、インディアンの土産物や、人形や、銅細工や、サボテン飴を必ず買うことになるのだった。(中略)広告に捧げられている相手は彼女であり、彼女こそは理想の消費者、あらゆる汚らわしいポスターの主題にして対象なのだ。

ここに象徴されているように、ロリータとハンバートの関係にも当然のことながら「金銭買収システム」が投影されていく。それは一年間に及んだ二人の旅が「理想の消費者」たる「連れのご機嫌を損なわないようにしておく」ためだったし、アメリカの全土にわたる名所旧跡を訪れることも、ロードサイドの多種多様なレストランに入ることも、そのことが目的だったのである。だから二人の道行は至るところにいったけれど、「実際には何も見なかった」ことになり、ここに『ロリータ』とアメリカのフィクションの位相が浮かび上がってくる。それはナボコフが「理想の消費者」たるロリータを造型し、そして彼女を伴って旅することで描かれた、アメリカ消費社会のビジョンだったのではないだろうか。

しかしフィクションとはいっても、二人が旅を経て住み着いた小さな大学町は、『ロリータ』が刊行された翌年の五六年に出版されたW・H・ホワイトの『組織のなかの人間』(岡部慶三他訳、東京創元社)の中の「新しい郊外住宅地」と題する長い第七部を彷彿させる。そしてそこで描かれる生活は、ハンバートとロリータの母親とのわずか五十日の結婚生活と同様に、当時の郊外のパロディ、いってみれば、私たちが六〇年代にテレビで見ていたアメリカのホームドラマのパスティーシュのようにも思えてくる。それをナボコフはハンバートをして「ソープオペラ、精神分析、安物の小説」からの影響だといわせている。しかもそのパロディ、パスティーシュを、ナボコフプルーストフローベール的記述によってすすめているので、そのフィクションもとても一筋縄ではいかない。それを翻訳で細部まで察知することは限りなく困難ではないだろうか。
組織のなかの人間

しかしそれでもひとつだけいえるのは、ナボコフとアメリカ郊外消費社会の出会いによって、この『ロリータ』を織りなす言葉が紡ぎ出されたのであり、そこにこの小説の特異な物語と構造が起因していると考えていい。それは『ロリータ』の中の次のような一文にも表われている。「ああ、我がロリータよ、わたしには言葉しかもてあそぶものがないなんて!」

それらの言葉によって成立するハンバートとロリータの母親との短い結婚生活、及び大学町の郊外生活から想起されたのは、『ロリータ』の新訳と同年に刊行された牧野智晃の写真集『TOKYO SOAP OPERA』(フォイル)である。そこでは百人以上の、おそらく郊外の「熟女」たちが「昼メロ」のヒロインを演じる姿が写し出されている。それはモーテルと同様の「ソープオペラ」のニュアンスを生々しく伝え、『ロリータ』という小説の断面と通底しているかのようだ。
TOKYO SOAP OPERA

そして何よりも五八年の『ロリータ』のベストセラー化によるアメリカ的現象として、六一年のスタンリー・キューブリック映画化も重なり、「ロリータ・コンプレックス」という言葉が流行し、それはR・トレイナーの『ロリータ・コンプレックス』飯田隆昭訳、太陽社)のような著作の出版に至っている。この著作は日本でも六〇年代に翻訳され、所謂「ロリコン」という言葉も定着していったことになる。

ロリータ ロリータ・コンプレックス
同書によれば、『ロリータ』の出現は、大人と子供の異常な性関係の状況を新たに解明しただけでなく、「ロリータ」=少女の誘惑者、ニンフェット、「ハンバート」=ロリータを愛する中年男で、思春期前半の少女に衝動的な性本能を抱く倒錯者という定義が与えられ、精神分析社会学の分野でも使用される専門用語となり、さらに新しい用語として社会にも伝播していったとされる。

『ロリータ』の出版がもたらした様々な分野における広範な影響に関して、ブライアン・ボイドの『ナボコフ伝 アメリカ時代』の翻訳が出されていないことが惜しまれる。これは前編にあたる『ナボコフ伝 ロシア時代』みすず書房)は刊行されたのだが、売れなくて後編の翻訳が見送られたのであろう。

ナボコフ伝 ロシア時代 上 ナボコフ伝 ロシア時代 下 Vladimir Nabokov: The American Years

これらの事実から明らかなように、サディズムマゾヒズムがサドやマゾッホという作家の個人名に由来するのと異なり、ロリコンは小説のタイトルに用いられたヒロインの名前に起因していて、『ロリータ』なる小説が、様々な領域にもたらした波紋の広がりを推測できる。それはもちろんナボコフの作品にこめた意図から逸脱したものであっても、トレイナーの『ロリータ・コンプレックス』における歴史的報告と多くの症例や事件が示しているように、ロリータやハンバートがいつの時代にも、どのような社会にも存在していたことを浮上させてしまったことになろう。

しかし日本において、コミックや写真集に「ロリコン」ブームが起きたのは、郊外消費社会が成立した八〇年代であり、それにまつわる事件が起きていったのは八〇年代から九〇年代にかけてだったことは偶然なのであろうか。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1