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古本夜話276 博多成象堂、武士道文庫、凝香園

立川文庫や大川文庫に続けてふれたので、やはり同時代に刊行されていた博多成象堂の武士道文庫にも言及しておくべきだろう。『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』も、大正期における新聞連載小説の人気を受け、広く大衆娯楽小説が普及した事実にふれ、次のように述べているからだ。

 こうした庶民読者層をバックに、大正の文庫本時代を迎えることになります。大川屋の「大川文庫」「桜文庫」「八千代文庫」、土屋信明堂の「武士道文庫」など、わが業界から華やかに文庫本時代を先駆けるシリーズが刊行されます。これに呼応するかのように大阪の立川文明堂から「立川文庫」が出版され、一世を風び(ママ)することになりますが、立川文庫は武士道文庫のクロース装を庶民化し、五色刷りの紙表紙、本文がザラ紙という軽易な仕立で青少年の読書欲をそそったものでした。大阪では榎本法令館も小型の長編読本を出すなど、明治以来の講談文化が一挙に花咲いたような時代になります。

そして同書はこれらの一節の上部に立川文庫と大川文庫の書影掲載しているのだが、武士道文庫に関してはそれがない。それに私も武士道文庫を一冊所持しているけれど、それは土屋信明堂版ではなく、大阪の博多成象堂版なのである。また『ニッポン文庫大全』ダイヤモンド社)には見当らないにしても、井狩春男『文庫中毒』ブロンズ新社)にはやはり成象堂が挙げられているし、かつて古書目録で、四十冊ほどまとまった武士道文庫の出品を見ているが、同様に博多成象堂版で、古書価は一冊四千円ほどだった。それは入手困難になっている古書状況を示唆してくれた。ちなみに私の手元にある一冊は浜松の時代舎で入手したもので、古書価は二千円だった。

ニッポン文庫大全文庫中毒

これらの事実からすると、『三十年の歩み』に記された「土屋信明堂」は博多成象堂の間違いではないだろうか。それに続いて「立川文庫は武士道文庫のクロース装をさらに庶民化し」云々とあるが、これは先行文庫とその模倣を語っていて、同じ大阪における出版の出来事と考えたほうがいいように思われる。脇阪要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』などによれば、博多成象堂の博多久吉は大阪出版界の「大先輩」とされ、明治三十年代から講談小説を出版し、その勢いは東京を上回るほどだったという。

そしてこれも「駸々堂の百年」とある駒敏郎の『心斎橋北詰』によれば、立川文庫の先達として岡田文祥堂の講談文庫が出て、それに立川文明堂立川文庫が続いてたちまち完売という成功を収めたので、大正時代に入り、大阪の出版社の「百花繚乱の文庫合戦」が展開されることになった。それらは駸々堂が大正文庫、岡田増進堂が新著文庫、博多成象堂が武士道文庫、樋口隆文館が花鳥叢書、岡本偉業館が史談文庫、名倉昭文館が探偵文庫、『三十年の歩み』に挙げられた榎本法令館は天狗文庫だった。しかし立川文庫を始めとして、大正末期にはマンネリ化に陥り、それらの文庫も次第に消えていったと伝えられている。
(『心斎橋北詰』)

さてここでようやく手持ちの武士道文庫にふれることができる。それは立川文庫と同じ小型本『丹波小太郎忍術破』で、「戦国時代、増して豊臣の末世には、随分忍術が盛んであつた」と書き出され、もちろん総ルビつきで、二百二十ページの講談的時代小説を形成していることになる。

その「武士道文庫奥書」には大正六年三月発行、著者は凝香園、発行者は博多久吉、発売所は博多成象堂と記され、さらに巻末には101点に及ぶ文庫のタイトルが掲載され、そこにこの『丹波小太郎忍術破』は含まれていないので、大正半ばですでに100点を優に超えるシリーズとなっていたことがわかる。博多久吉は「成象堂主人」として、「緒言」を記している。それを要約すれば、西洋の思想が輸入されるにつれ、武士道の意気が失われ、青年子弟の軽佻浮薄、利に走る環境に対し、「一世の風潮を作らん」として「弊堂が今茲この文庫を刊行する」との言である。

このような「緒言」から考えても、やはり武士道文庫は博多成象堂の出版物だと見なしてかまわないだろう。ただひとつ留意しなければならないのは、武士道文庫の東京での一手取次が土屋信明堂だったという仮説だが、それはもはや記録も残されていないので、確認することはできない。

それから凝香園という著者についてであるが、古書目録で見た四十冊ほどの武士道文庫の著者はすべて凝香園となっていた。本連載274で既述しているように、立川文庫は玉田玉秀斎口演とされているが、一族総出演の集団製作によっていたことからすれば、当然のことながら、武士道文庫のすべての著者が凝香園だとしても、同じように集団製作の確率が高いし、前出の『心斎橋北詰』には、立川文庫の集団製作者たちが武士道文庫、大正文庫、史談文庫、新著文庫にも作品を供給していたとの指摘も見られる。

しかし私見を述べれば、「凝香園」というペンネームから、明治二十年代に『大阪朝日新聞』に健筆をふるい、時代物、現代物を問わず多くの長短編を書き、関西文壇の重鎮と仰がれた渡辺霞亭のことを彷彿してしまう。彼もまた碧瑠璃園や緑園といった別号を使い、明治四十年前後から大正時代にかけて、新聞や雑誌に家庭小説『渦巻』などの話題作も多く発表している。私も「霞亭文庫と玄文社」(『古本探究3』所収)で、彼の同じ家庭小説『残月』を論じているが、その質の高い多作ぶりから考え、優秀なアシスタントやスタッフを抱えているのではないかと想像したことがあった。そう考えてしまうほど、霞亭は小説のみならず、多方面にわたって健筆をふるっているのである。彼のスタッフが「凝香園」の名前で、大阪の「百花繚乱の文庫合戦」にも参加していたのではないかと想像することはとても楽しいことなので、ここに記してみた。
古本探究3

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