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混住社会論11 小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)

占領軍住宅の記録 上 占領軍住宅の記録 下


本連載8で論じたハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』と同様に、『〈郊外〉の誕生と死』において参照すべきであったと思われる著作がある。だがそれも拙著の上梓後に出版されたので、残念なことにかなわなかった。それは『占領軍住宅の記録』上下で、小泉和子・高薮昭・内田青蔵を著者とし、九九年に「住まい学大系」96・97として、住まいの図書館出版局から刊行されている。
ザ・フィフティーズ 上 〈郊外〉の誕生と死

『占領軍住宅の記録』は小泉和子による「はじめに」で、第二次大戦後に日本人の生活様式は大きく変わり、ほとんどの家庭が様々な電化製品を備え、ベッド、椅子、テーブル、水洗トイレを使う洋風化した生活を送っているが、このような生活様式の始まりには漠然とした、占領軍を通じてのアメリカ文化の影響といったものではなく、「はっきりした一つの契機が存在していた」と指摘し、次のように続けている。

 それが「デペンデント・ハウス」(Dependents Housing)、すなわち連合軍の家庭用住宅、いわゆる「DH住宅」である。デペンデント・ハウスのデペンデントはインディペンデントの反対で、「依存している」とか「従属している」という意味であるが、「扶養家族」という意味もあり、この場合は占領地での将校軍人層の「家族用住宅」のことを指すという。

敗戦後の昭和二十年十二月に日本政府はGHQから、国内だけで一万六千戸に及ぶ占領軍の家族用住宅の建設を命じられた。それは東京、横浜を始めとし、北海道から九州の各地に及び、しかも住宅を中心として、学校、礼拝堂、劇場、クラブ、診療所などの公共施設を備え、道路、上下水道を完備した団地の建設であり、その期限は二十二年三月とされた。

東京におけるそれらのデペンデント・ハウスの例を挙げれば、代々木のワシントンハイツ、三宅坂のパレスハイツ、国会議事堂前のリンカーンセンター、現在の参議院議員公舎のところにはジェファーソンハイツ、成増にはグラントハイツがあり、焼け跡のバラック住まいの日本人にとって、「夢のような異空間が広がっていた」ことになる。

小島信夫の『アメリカン・スクール』(新潮文庫)は昭和二十三年を時代背景とする日本人英語教師たちのアメリカン・スクール見学団の生態と内的葛藤を描いている。そのアメリカン・スクールは地方の県にあって、東京ではないが、紛れもなくデペンデント・ハウスを中心とする団地の中にあり、「歩くための道ではない」道路はアスファルト舗装され、車がひっきりなしに通っていた。その道を「見学団の一行はぞろぞろと囚人のように」歩いていくのだ。そしてたどりついたアメリカン・スクールは、畑をつぶした広大な住宅地の中央に瀟洒な姿を見せて立っていた。その付近に立ち並ぶ住宅は寝室までもが手にとるように見え、そこで日本人メイドが幼児の世話をしていた。「参観者たちにはその日本人の小娘まで、まるで天国の住人のように思われる」。その「天国」と戦争して敗北し、占領された現実を描いた生々しい小説として、『アメリカン・スクール』は提出されている。

アメリカン・スクール
ここに出現している「天国」がデペンデント・ハウスだったわけであり、私たちは『占領軍住宅の記録』の刊行によって、ようやく具体的にその「天国」の内実と詳細を知ることになったといえよう。そして海の彼方の「天国」と見なせるアメリカ本国では、同じ戦後を迎えての五〇年代の郊外消費社会の誕生と隆盛が準備されつつあったのである。

それはともかく、デペンデント・ハウスに話を戻すと、これは昭和二十三年六月に出された『DEPENDENTS HOUSING』(日本語版標題「デペンデント・ハウス(連合軍家族用住宅集区)」)の発見に基づいている。この写真・図面入りのB4判、二百六十余ページの資料集は、GHQデザインブランチの日本人スタッフと商工省工芸指導所篇で、技術資料刊行会から限定二千五百部、定価千五百円で出版されたものである。この日本版に対して、同じ『DEPENDENTS HOUSING』という米極東軍技術部による記録報告書もGHQの側から出されていて、こちらの編集発売はENGINEAR SECTION FEC, 発行年不詳である。この二冊の書影が『占領軍住宅の記録』の上巻の口絵写真に掲載されている。

それらのことからわかるように、『占領軍住宅の記録』は主として日本版から構成され、従として英語版を参照して編まれている。前者は日本側の記録、後者はアメリカ側の本国への概要報告書と位置づけされることからすれば、四十万人に及んだという占領軍のためのデペンデント・ハウスの建設は、日米の混住スタッフによるプロジェクトであったことを示している。それは『占領軍住宅の記録』上巻がデペンデント・ハウス、下巻がその家具や什器にわけられているように、このプロジェクトは建築ばかりでなく、家具、什器、家電製品などにも及び、これを機にして建設、家具、什器、家電業界はいずれも復興の手がかりをつかみ、本格的な生産の開始と飛躍的な技術の向上を果たし、その結果が戦後の日本人の生活様式の変化へと波及していったことになる。

このことに関して、『占領軍住宅の記録』は先に引いた「はじめに」において、戦後の生活史にとって、これが「日本人の生活様式全般にかかわるもっと根本的問題」「DHは第二の文明開化」だったと位置づけている。それでいて、そのことはほとんど認識されていないとも指摘して、次のように述べている。

 この原因はDHの工事が敗戦直後のことで、どさくさにまぎれてしまったこと、当時でもその全貌を知っていたのは一部の関係者に限られていたからかもしれない。ましてや当時は、これが日本人の生活史上での大きな転換点になるものだなどという、事柄の重大性は誰もわからなかったであろうし、その後の日本がどうなっていくかなどもわからなかったであろう。

しかしそれが今では切実にわかる。それは私自身が占領下に生まれた子供たち、すなわちオキュパイド・ジャパン・ベイビーズのひとりであるし、占領期に続く、様々なモノの出現の覆われた高度成長期、そして消費社会と郊外の誕生、そして郊外消費社会の形成や東京ディズニーランドの開園へとも一直線につながっていると理解できるからだ。現実にデペンデント・ハウスが建設されたばかりでなく、イメージもまた無意識のうちに刷りこまれ、アメリカ的生活様式へと向かっていったのである。また他ならぬ郊外の先駆けともいえる日本住宅公団による団地の開発と建設も、占領軍のデペンデント・ハウスに端を発していることはいうまでもないだろう。

そうした意味においても、この本文合わせて四百余ページの上下本は、写真と図面と含めることによって、戦後史の始まりの刻印する資料として様々なイメージをかき立てずにはおかない。それは本文だけでなく、Appendixとある「栞」も同様で、上巻に収録されたDHデザインブランチだった網戸武夫へのインタビュー「デペンデント・ハウスの住宅設計」はすべてにわたって興味深いけれど、彼が建築家としてはめずらしく、ダイレクトにアメリカの家庭とセクシュアリティのイメージに言及しているので、それを引いてみる。ワシントンハイツのDHはファミリーでなければ入居できないし、単身赴任ではなかったし、「そこにあるのはアメリカの生活様式」で、それは「短絡的にいえば夫婦単位の生活、つまりセックスです」と述べ、続けている。

 ですからそこで行われているファミリーとは、いわゆるセックスを絆とした夫婦が中心です。だから女性は家にいても非常にカラフルなものを着て、挑発的で、帰ってきたらいつもキスするとか、抱き合うとか。そういう二人の行為が営まれる場所としての軍の施設であること、それは歴然としています。

それを象徴するのは、サニタリーと称されるバス、トイレ、シャワーなどの衛生関係のもので、それらはベッドルームと一体化していた。また寝室は妻の城であると同時に、夜のファミリーの運営、料理やパーティは妻が中心で、このようなコンセプトに則ってデペンデント・ハウスが建設されたという。付け加えれば、メイドの主な仕事は昼間の洗濯、掃除、ベビーシッターであった。メイドはメイドルームもあり、専用のトイレがついていたが、それは差別、もしくは階級に基づいていた。

もちろん網戸の証言は「短絡的」であるにしても、日本人の目に映ったデペンデント・ハウスのアメリカ人の家庭生活をくっきりと描き出しているし、彼らと接した多くの日本人がそのように受容したことは想像に難くない。それは九〇年代になって私たちも見慣れた風景になった、日系ブラジル人夫婦がもたらす印象と通底している。同時代に中国や東南アジアの人々が単身赴任や独身のままに日本にきていたことに比べ、日系ブラジル人たちは必ず夫婦や家族でやってきていた。そこに欧米とアジアの差異が認められることは、家族とセクシュアリティのイメージのギャップが依然として存在しているということになるのだろう。そのことを考えても、網戸の建築家ならではの、デペンデント・ハウス家屋構造から見られた家族とセクシュアリティに関する発言はリアルで、アメリカ人の家庭生活を敗戦直後の段階で穿っているようにも思えてくる。

ちなみにふれておけば、網戸も含めたデペンデント・ハウス日本人担当者十四人が上巻にリストアップされているが、経歴やその後の消息の双方が判明しているのは半分ほどであり、そのうちの四人についてはどちらも記載がなく、このプロジェクトのために様々なルートから召喚されたことを示唆しているのだろう。

梶山季之は『小説GHQ』(集英社文庫)において、このようなデペンデント・ハウスを始めとする、占領軍の多大な濫費的要求は一年間に五〇〇億円以上にのぼり、それはすべて国民の税金でまかなわれ、この敗戦処理がインフレーションの原因であったと指摘している。昭和二十一年の国家予算は千九百億円だったのだ。これについては「梶山季之と『小説GHQ』」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収、編書房)を書いているので、よろしければ、参照されたい。

文庫、新書の海を泳ぐ

なおDEPENDENTS HOUSINGに関しては、ブログ「Thinking for the House」が動画も含んで興味深い。こちらもぜひ一見されたい。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1