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古本夜話281 崇文館と松山敏『ハイネの詩集』

湯川松次郎の『上方の出版と文化』は自らの湯川弘文社について、多くは語られていないにしても、他の出版社に関する証言はかなり含まれていて、脇阪要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』と照らし合わせると、少しばかり手がかりがつかめたりする。

しばらく前にやはり浜松の時代舎で、松山敏訳『ハイネの詩集』という文庫より小さいB7判、天金上製箱入の本を買った。小型本ながら定価八十銭で、発行所は大阪市西区の崇文館書店、発行者は藤谷芳三郎、大正十二年六月三版発行となっていた。そして巻末広告には同じ松山訳『ホイットマンの詩集』『ヴエルレエヌの詩集』、尾上紫舟訳『ハイネの詩』、石躍信夫訳『ゲエテの詩集』『バイロンの詩』が並び、「ポケツト形各上質印刷紙印刷/優美なる絹表紙装丁箱入」とあった。このシリーズも判型だけを考えれば、大正時代の大阪の出版社の「文庫合戦」のひとつに位置づけられるかもしれない。

版元の崇文館は『大阪出版六十年のあゆみ』で、明治三十年代の心斎橋筋の主な書店として挙げられていたが、その出版についてはふれられていなかった。しかし『上方の出版と文化』において、具体的に言及されるに至った。それによれば、崇文館は大阪唯一の軍隊書の出版社であり、日露戦争後の軍拡時代と相俟って成長をとげ、創業者長吾の死により、芳三郎が二代目を継いだ。そして太平洋戦争となり、軍隊書の需要は旺盛で、それこそ飛ぶように売れ、一躍成金になったという。しかしそのために戦後の出版は順調に運ばず、閉店状態だったと報告されている。戦前において、軍隊書、所謂兵書出版は確固たるシェアを占めていたようだが、敗戦とともに消滅してしまった分野でもあり、崇文館も同様の運命をたどったと思われる。

したがって軍隊書と詩集の出版の組み合わせはいかにも奇妙なので、このポケット詩集シリーズは崇文館のオリジナル企画ではなく、他社の紙型を流用した焼き直しだと考えたほうがいいように思われる。ほとんど無名の松山敏や石躍信夫はともかく、尾上紫舟を調べてみると、尾上は明治三十四年に新声社から訳詩集『ハイネの詩』を上梓している。だが三十六年には佐藤儀助の新声社は資金難に陥り、著作権を譲渡しているので、当然のことながら『ハイネの詩』も含まれていたと考えられる。だから尾上訳の元版は新声社版だと見なしていいだろう。
明治・大正・昭和翻訳文学目録
さてここで私の入手した松山訳『ハイネの詩集』に戻るのだが、国立国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』(風間書房)を繰ってみると、崇文館は掲載されていないけれど、次のような松山訳が見つかった。彼の訳したハイネの詩は様々な版が出されているとわかる。

1 『ハイネ名詩選』 (「世界名詩叢書」一編、八光社、大正十二年)
2 『ハイネ名詩選集』 (「泰西詩人叢書」七編、聚英閣、大正十二年)
3 『ハイネ小曲集』 (緑蔭社、大正十五年)
4 『ハイネ小曲集』 (三水社、昭和二年)
5 『ハイネ詩集』 (「世界詩人文庫」、人生社、昭和二十五年)
6 『ハイネ詩集』 (「人生詩歌文庫」、人生社、昭和二十六年)

(松山悦三訳、人生社版)

これらの六点は崇文館の訳者の「序」に記された「彼の代表的な詩のみ」とか、「小曲」といった言葉から判断すると、内容はまったく同じだと思われる。訳者の「序」の日付は大正十二年一月で、崇文館版発行は六月であるから、その前に八光社版がでているのかもしれない。それにしてもほぼ五年間で、崇文館も含めると、五つの出版社から同じ訳詩集が刊行されたことになり、どのような事情と経緯があってかわからないが、さらに戦後に至るまで、この訳詩集は出版社を転々とした事実を示していることになる。おそらく他の版もあるだろうし、元版の謎も考えれば、興味は募るばかりだ。それでもただひとつ確実にいえるのは、このような出版が特価本業界の「造り本」の常套であるということだ。つまり崇文館もその近傍にいたと考えていい。

さらに松山訳のホイツトマンやヴエルレエヌも『同目録』で確認すると、前者は昭和八年の崇文館版に加え、大正十四年の文英堂版、後者は大正十五年の文英堂版と昭和二十八年の人生社版がある。また石躍訳のゲエテとバイロンも検索してみた。だが両者の石躍訳は見つからず、その代わりに松山訳の昭和二年の成光館版と同二十六年の人生社版の『ゲエテ詩集』、同じく松山訳の大正十二年の聚英閣版、昭和十三年の荻原星文館版、昭和二十六年と二十八年の人生社版の『バイロン詩集』があった。これらの事実からすると、松山と石躍は同一人物の可能性もある。
(『ゲーテ詩集』石躍信夫訳、崇文館)

それから崇文館とほぼ同時期に「世界名詩選」シリーズとして、『ホイットマン詩集』や『ヴエルレエヌ詩集』を刊行している文英堂は、現在 学習参考書の版元として知られているが、大正半ばに創業した大阪の出版社であり、崇文館と著作権や紙型を共同で買い入れ、それぞれ判型の異なるシリーズとして刊行したのかもしれない。昭和に入って、それらの出版に成光館や荻原星文館が出てくるのを見ると、その後も著作権や紙型は特価本業界の中にあって、戦後に人生社に移ったことを告げているのであろう。

さてこの松山敏とはどのような人物なのか。『日本近代文学大事典』を引いてみると、索引にその名前が見え、近代文学研究者の勝本清一郎がプロレタリア文学運動の中で使用したペンネームだとわかるが、詩集出版と年代的に合わない。それゆえにもう一人の松山敏が該当人物だといわざるを得ない。それは門野虎三の『金星堂のころ』(ワーク図書、復刻金沢文圃閣)に出てくる金星堂の最初の編集者にして詩人の同名の人物であろう。また大正十五年に新時代文芸社から松山編で、『世界名詩宝玉集』が何巻か刊行されているが、その発行者は門野であることからすれば、実際に新時代文芸社と金星社は同じということになる。
日本近代文学大事典

実は金星堂こそは大阪の赤本出版業界と東京の特価本業界をリンクさせた文芸書出版社に他ならないし、松山敏の訳詩集の遍歴はそのことを象徴的に物語っているように思える。

なお国会図書館のデータなどを確認してみると、松山敏は松山悦三と同一人物で、戦後に多くの著書を人生社から出しているが、人生社は松山の私的出版社だったようだ。

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