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混住社会論15 大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年)

童夢


大友克洋『童夢』において、まず迫ってくるのは、突出した団地の風景とその描写に他ならないし、それは冒頭の見開き二ページの夜の高層団地の風景に象徴されているといえよう。そこでは屋上も俯瞰されているが、まったく人影もなく、「どさッ」という小さな吹き出しがなければ、幾何学的で端正な建築のパースのようにも見え、コミックの一場面なのかどうか、判断を保留するところだろう。

そのような見開き二ページにわたる団地のシーンはこの他に内部の光景を含め、四ヵ所に及んでいるし、表紙カバーも一コマの拡大転載だが、同様であることに気づく。それが崩壊した団地の風景に他ならないにしても。これらに加えて、すべてのページにといっていいほどに、団地の建物の外観のみならず、内部の構造、部屋の中も描かれ、その周辺の施設、公園、植栽なども例外ではない。

これは『童夢』の物語の舞台が団地であるから当然のことのように思われるかもしれないが、ここまで意図的に団地空間そのものを描き出そうと試みたコミックはなかったように思われるし、その後も出現していないのではないだろうか。例えば、同様に高層団地を舞台をしたコミックである細野不二彦『幸福の丘ニュータウン』小学館)にしても、団地の風景はこれみよがしのように描かれている。だがそれらは書割であって、そこで起きる物語がメインのテーマとなっているとわかる。ところが『童夢』においては団地という空間が特異な物語を生み出すトポスであることが前提となっているゆえに、そのような執拗な反復と見なせる描写が挿入され、物語を覆っていると考えられる。
タワーリング・インフェルノ

また『童夢』に描かれた高層団地は、ベースとして高島平団地をモデルにしていると思われる。高島平団地について、『日本住宅公団20年史』を参照すれば、それは口絵写真のトップに掲げられ、高層、高密度住宅の形態とその風景は『童夢』の団地と酷似している。そして高島平団地に関する次のような記述にも出会う。

 日本30年代の団地は、社会資本が比較的未整備な郊外に建設され、2,000戸から3,000戸までの自己完結型のものが多かったが、 40年代に入って、団地の大規模化、高層化などともに、内部の生活環境施設においても大規模化、高度化が進んだ。ちなみに、47年に入居した高島平団地(東京板橋区)は、14階建の住棟を含む中高層住宅が多数並ぶ―1万戸を超える大団地であるが、そこには推定4万人近い人びとが住んでおり、ある意味では地方都市に匹敵する規模と設備をもち、高密度地域社会の典型であるといえよう。

これをさらに補足すると、東京二十三区内で三五〇ヘクタール、全六四棟に及ぶ最大規模開発団地で、施工開始は昭和三十八年である。

日本住宅公団は一九五五年に設立され、翌年に首都圏整備法が公布され、郊外に二千から三千戸のスプロール的団地開発が行なわれていたのが、六〇年代になって新都市計画法都市再開発法の公布に伴い、高島平のような都市周辺における再開発に基づく大規模で高層化した団地も誕生していったのである。しかしそれが『日本住宅公団20年史』がいうごとく、「地方都市に匹敵する]団地であったにしても、それまでと同様の人工の郊外、しかも高層高密度の郊外の出現だったことは 否定できないだろう。

そしてこれは『〈郊外〉の誕生と死』でも言及しておいたが、郊外の開発の先駆けだった日本住宅公団の賃貸住宅計画戸数は七一年をピークにして減少していく。それは高度成長期と併走してきた団地の使命の終焉と、そのかたわらで始まっていた郊外のマイホーム取得の隆盛を物語っていよう。この時代から混住社会が形成され、ロードサイドビジネスも誕生していったのであるから。
〈郊外〉の誕生と死

それはまた高度高密度の団地に住むことの不可能性や不安を表出させていき、高島平における自殺者の頻出となって具体化してしまう。その現象に注目したのは、実際に高島平団地に住み、同時代における住居論『都市の貌』『〈住む〉という思想』(いずれも冬樹社)を上梓していた米沢慧、同じく戦後家族論、『家族の現象論』筑摩書房)を著わしていた芹沢俊介であった。

とりわけ後者の芹沢は同書所収の「象徴としての高島平」において、七二年から七五年にかけての居住者、非居住者を含んだ団地での投身自殺者五十八人を示し、米沢の発言を背景とし、死の象徴性としての高島平のイメージの在り処を探りあてようとしている。しかしそれに関しては、これ以上踏みこまない。ただここでは、『童夢』の団地のモデルと考えられる高島平にこのような投身自殺者が続出していた事実を伝えておきたいからだ。

さてここで『童夢』の物語へと戻ることにしよう。冒頭の見開き二ページの団地の風景にあった吹き出しの「どさッ」が、物語が始まっていくと、投身自殺の音だったことがわかる。そして警官や刑事たちの会話が記される。「この団地だけで25人目だからな/もう『変死』だけじゃすまないぞ…」。このセリフから団地に高島平のような相次ぐ自殺、しかも「変死」的な自殺が起きていることがわかる。警察の会議で、刑事も発言している。「最初の被害者が出てから3年と2ヶ月……自殺者と思われる者5名……事故扱い7名事件扱い3名変死……9名/尋常じゃないですよ」と。

さらなるもう一人の、遺書も動機もノイローゼでもない普通のサラリーマンの変死も生じたことによって、捜査の方針の重点は、これまでの被害者の周辺事情と関係者に置かれていたが、この堤団地自体に向けられ、団地建設における用地買収問題、建設に関しての入札事情、その際に問題のあった会社や人物、周囲の住民で建設に反対した者や団地に怨みを持っている者などについての聞き込みもなされていく。

そのような過程で、「団地内の不審人物」が挙げられ、登場してくることになる。三浪の浪人生の勉、流産してノイローゼになった手塚さんの奥さん、頭は子どもだが、体は「男」で母親と棲んでいるヨッちゃん、トラックに乗っていたが交通事故で片足が駄目になり、アル中のために妻にも逃げられた吉川、一人暮らしでボケているチョウさんといった顔ぶれである。つまりこれらのメンバーが「不審人物」として挙げられることは、他と異なる高層高密度の団地においてさえも、同じような社会の排除の視線が注がれていることになるし、それが物語の前提だと了解される。

そのような団地空間で巡回や捜査を続けているうちに、夜に一人の巡査が拳銃を奪われ、屋上から飛び降り自殺し、山川部長刑事も同じ死をとげる。その代わりのように引越してきた少女のエッちゃんと岡林刑事の登場によって、『童夢』の物語は新たな場面へと入っていく。団地の人たちは一連の事件以来、夜の外出を避け、「事件のことはほとんどタブーに近いぐらい」になっている中で。その一方で、エッちゃんとチョウさんの出会いによって、二人がともに超能力者で、チョウさんが事件を操っているらしいことが判明してくる。

エッちゃんはヨッちゃんとアル中の吉川の息子と親しくなるが、三浪の勉はエレベーターでエッちゃんを襲い、それに失敗すると、カッターナイフで首を切って自殺する。再び見開き二ページで、彼の血があたり一面に飛び散った団地の高層の通路と壁が描かれている。それに続いて吉川が巡査のなくなった拳銃を手にし、子どもに続いて、ヨッちゃんと息子も撃ち、エッちゃんにも迫ってくる。これらはすべて「今迄僕一人で遊んでいたのに」と語るチョウさんが、いくつも仕掛けた事件をエッちゃんに邪魔されたために仕組んだものだった。

かくして高層高密度団地を舞台とするエッちゃんとチョウさんの戦いが始まり、それは『童夢』の物語の半分を占めることになる。団地の屋上に佇む二人、団地の姿が様々なアングルから捉えられ、そのまま超能力者の戦場へと化していくのだ。それらはストップモーションなども含め、映画技術をも自家薬籠中のものとした大友のコミック文法が最大限に発揮され、緊張した臨場感を伴う一大スペクタクルを現出している。仕掛けられたガスの充満、次々と飛び散っていくガラス窓、続いて起きる高層団地を破壊せんばかりのガス爆発、崩壊していく団地の内部の光景、『タワーリング・インフェルノ』などの、パニック映画ならぬパニックコミックのクライマックスに立ち会っているかのようだ。

タワーリング・インフェルノ

これらの『童夢』の半分をしめる団地のおける戦いとその崩壊を見届けると、もはやそこに、『日本住宅公団10年史』にあった牧歌的にして、まだメルヘン的な面影も有していた初期の団地の風景がもはやまったく失われてしまったことに気づく。そして歴史を経て、様々な事件をも体験してきた上に、八〇年代における終末史観も相乗する団地もまた、このような凶々しいイメージを内包するようになってしまったことも。これらの「公団史」に関しては本ブログの拙稿、「三冊の日本住宅公団史」を参照されたい。

しかもそれをチョウさんのような「翁」、エッちゃんのような「童」に象徴させたこと、しかも「翁」と「童」は同一の「子供」として語られ、見なされていることからすれば、「童夢」とは双方が紡ぎ出した物語ということにもなる。そのような「翁」と「童」、そして郊外の物語は、大友最初の作品集『ハイウェイスター』のそれぞれの短編の中に気配はうかがわれていたが、『童夢』のような長編へと結実したのは、高島平のような高層高密度の団地のイメージを物語へと取りこむことによって可能となったと推測される。郊外のポストモダニズム的高層高密度の団地空間にあってさえも、老人や子供たちによる凶々しい夢想が息づき、そこにも常に古代からの神話的「翁」と「童」の混住の役割が潜んでいることも示唆しているのだろう。
ハイウェイスター

またさらに超能力者やその少女ということであれば、七〇年代後半から八〇年代初めにかけて、相次いで翻訳され始めたスティーヴン・キングの諸作品を挙げることができる。それらは、『キャリー』『ファイアスターター』(永井淳、深町真理子訳、いずれも新潮文庫)『呪われた町』(永井淳訳、集英社文庫)、『シャイニング』(深町真理子訳、文春文庫)などである。これらの中で『キャリー』『ファイアスターター』はまさに超能力を有する少女を主人公とし、『シャイニング』はホテルを舞台としているが、このホテルを団地に置き換えれば、そのまま『童夢』のコンセプトも成立するように思われるし、『ファイアスターター』を覗いて、いずれも『童夢』以前に映画化されているので、それらの映像の影響がコミックへも流れこんでいると考えられる。そうした同時代の様々な流れも受け継ぎ、『童夢』は成立したように思われる。

キャリー ファイアスターター 呪われた町 シャイニング
◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1