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古本夜話284 福永書店と徳富健次郎『小説富士』

前回、創元社の矢部良策の最初の出版『文芸辞典』は、大正七年に福永一良が福永書店を創業し、徳富蘆花の『新春』を処女出版したことに刺激を受け、矢部も大阪で出版社をと考えたことがきっかけだと既述しておいた。福永書店は特価本業界と直接関係ないけれど、福永書店を範として創元社が立ち上げられたこと、福永書店にいた福永の従弟の小林茂創元社東京支店の責任者となり、小林秀雄を編集顧問として「創元選書」を企画したことは近代出版史に記憶すべき事柄であり、それにまた福永書店の本を二冊所持している。それゆえにここで福永書店について、少しばかり場ちがいであるにしても、一編を挿入しておきたい。

前回ふれたように、創元社の矢部良策の父は福永文之助の後を受け、大阪の福音社で働き、その出版と取次を矢部福音社とともに引き継いだ。一方で福永は上京して福音社東京支店を設け、キリスト教関連書出版の警醒社を譲り受け、個人経営にしている。その息子の一良が創業したのが福永書店であることは既述しておいたし、良策と一良は二人とも二代目にして出版社を新たに設立したことになる。

手元にある福永書店の徳富健次郎、愛著『小説富士』第二巻を見ると、一良が社名こそ異なるが、名実ともに二代目として、福永文之助と警醒社の全面的バックアップを受けて、福永書店をスタートさせたとわかる。最初に出した『新春』の著者徳富健次郎=蘆花は明治後半から大正期にかけてのベストセラーの著者であり、明治三十三年に民友社から出版した『不如帰』や『自然と人生』はその最たるものだった。
不如帰 自然と人生 (ともに岩波文庫版)

そのベストセラー作家の威光は『新春』や『小説富士』の時代まで保たれていたようで、巻末の重版記載や広告の文言によれば、大正十五年時点で、『小説富士』第一巻は第三十八版、第二巻は第二十八版、『新春』は第六十六版となっている。その蘆花の書き下ろし『新春』『竹崎順子』『小説富士』全四巻を大正七年から昭和三年にかけて独占出版したわけだから、福永書店がまさに乳母日傘のようなかたちで始まり、続いていったとわかる。

そこには蘆花と警醒社の関係も作用し、彼は『不如帰』や『自然と人生』のベストセラー化を背景にして、兄の蘇峰の民友社から去り、個人で出版のための黒潮社を設けたことから、その発売元になった警醒社と関係が深くなり、主著を警醒社から刊行するようになっていた。この『不如帰』本連載278で取り上げた家庭小説の走りであった。

したがって蘆花にしてみれば、福永父子が営む警醒社と福永書店は同じだと見なしていたはずで、それゆえに書き下ろし出版を委ねたと思われる。その事情を示すかのように、巻末広告には、他社や共同出版だった『みみずのたはごと』『黒い眼と茶色の目』も福永書店版が掲載され、それは警醒社の『ゴルドン将軍伝』『黒潮』『順礼紀行』『寄生木』も同様で、いずれ蘆花作品は福永書店の全面的な独占出版をめざしているかのようでもある。それに大正七年の東京書籍商組合の『図書総目録』などで調べてみると、両社の住所は京橋区尾張町二丁目十五番地で、まったく同じだとわかる。
みみずのたはごと 黒い眼と茶色の目 (ともに岩波文庫版)

これらの事実から考えて、蘆花は昭和二年に亡くなっているので、彼の晩年の出版は福永書店とともにあったことになる。実際に中野好夫の『蘆花徳冨健次郎』(筑摩書房)の第三部は「『新春』をめぐって」や「心の母に―『竹崎順子』」や「『富士』という名の遺書」という章があり、また付録として「小説『富士』のモデル」も添えられているように、半分以上がそれらの時期に当てられている。『新春』と『竹崎順子』の初版部数に関してだけふれておけば、前者は二万部、後者は一万三千部だった。そして蘆花は関東大震災の翌年の大正十三年一月から未完の自伝大作『小説富士』の寄稿にとりかかっている。この作品について、中野が内容と評価を簡略に述べているので、それを引いてみよう。もはや読者もいないだろうし、私にしても第二巻しか読んでいないこともあり、長い引用になってしまうが、その紹介の意味もこめている。

蘆花徳冨健次郎 第三部

 いうまでもなく「富士」は、健次郎のいわゆる告白的自伝小説ということになっている。そのかぎりでは特に異論もないが、ただこの自伝、いろんな意味で数々の問題を含んでいる。まず第一に、自伝とはいっても、成稿になったかぎりでは、健次郎二十七歳の春(明治二十七年五月)、その結婚のことから起筆され、はからずも作者の死により、最終の巻は未完のまま公刊されざるをえなかったにはせよ、三十九歳のこれも春(明治三十九年四月)、いわゆる順礼行に旅立つまで、わずか十三年足らずの記録を綴っているにすぎぬ。(中略)四巻一五〇〇頁に近い大冊にもかかわらず、六十年の生涯のうち、わずかにその五分の一あまり、(中略)もっとも重要な部分であるべきはずの後半生、彼のいわゆる心的革命後二十年あまりの精神史は、ついに展開されるよしもなかったのである。その意味では、なんといっても大きな欠落をのこした自伝といわねばならぬ。
 第二には、いわゆる小説としての問題がある。かりに小説として見た場合(いわゆる私小説をも含めてだが)、およそ拙劣きわまる、といって悪ければ、完成度に遠い作品であることはいうまでもあるまい。発表当時、文壇方面からはほとんど完全に無視された(後略)。

第二巻を読んだだけであるが、『小説富士』の評価は中野の判断に肯かざるを得ない。しかししばらく後で、中野が次のよう書きつけていることを忘れるべきではないだろう。

 だが、それではこの作、果たしてそれほどの失敗作、愚作と言い切れるのであろうか。答はもちろん否である。(中略)わたしのこの評伝にしても、そこまでの基礎資料は、好むと好まざるにかかわらず、ほとんどこの自伝に負うてきた。言葉をかえていえば、大黒柱であった。(中略)それほどまでに興味深い、また貴重なドキュメントでもあるのである。いかに「塵埃の山」ほどの末梢瑣末事に溢れているとはいえ、それらをさえ整理して読みすすめば、やはりなんといっても近代日本文学、稀に見る自伝物といわねばならぬ。あえて塵埃の山の中に輝く宝石を求めるだけの価値はあるはずである。

しかしこの中野にしても、「貴重なドキュメント」「稀にみる自伝物」を出版した福永書店と福永一良に関してはそれらの名前が挙げられている程度にすぎず、晩年の著作に併走した事実からすれば、かなり深い親交が生じていたはずなのに、蘆花との関係などへの言及は見当たらない。それは「近代日本文学」史において、出版社や出版者のことは「末梢瑣末事」であることの反映でもあろう。それでも中野は蘆花の福永一良宛の手紙を引用していて、その中に「君も気永に保養し玉へ」との言が見えるので、一良が病弱だったことは前回も既述しているが、そのような一良の代わりとして、小林茂が実質的な福永書店の編集者だったとも考えられる。

なお『小説富士』の巻末広告に、本連載197でふれた文化生活研究会刊の蘆花の『太平洋を中心にして』も掲載されていることから、福永書店は同会とも関係があったかと思われる。

福永書店のもう一冊の本は厨川白村の『十字街頭を往く』で、こちらは関東大震災で亡くなった白村の遺作ということもあってか、大正十二年十二月刊行、十三年二月八十版となっているので、これも当時のベストセラーの一冊だったにちがいない。
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だが蘆花の著作にしても白村の遺作にしても、話題のベストセラーになったはずなのに、昭和円本時代以降に福永書店の名前を目にしていない。そのことから考えると、福永一良の病弱ゆえに福永書店の出版活動はそれほど長くなかったのかもしれない。

この一文を書いたのは五年前だが、最近になって浜松の時代舎で、『小説富士』全四巻があるのを目にした。

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