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古本夜話286 松木玉之助、マツキ書店、金鈴社

坂東恭吾へのインタビュー、「三冊で一〇銭! ポンポン蒸気の中で本を売る」(尾崎秀樹・宗武朝子編、『日本の書店百年』所収、青英舎)の中に、言及しておかなければならない名前も出てきていた。それは残本をばらしている博文館の倉庫で、坂東が出会った人物だった。その人物について、彼は語っている。「倉庫の係長が松木玉之助氏で、これは今日の金園社の先代(先々代)です」。金園社については本連載208でもふれているが、今回は『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』における金園社の紹介を引いてみる。

 明治十年生まれの先々代松木玉之助が、新潟県長岡から上京し、当時の日本出版界の雄であった博文館に入社。その後独立して、全国の読者と直接取引する通信販売業・玉泉堂を興す(中略)。
 昭和八年、先代松木春吉が書籍・雑誌の卸業・マツキ書店を創立。毎月の月報による通信販売により、北は樺太・朝鮮から南は台湾も含む日本全国多数の一般書店と直接取引をおこない、戦後いちはやく、(中略)巡回を開始。かたわら、自社出版も創人社版「世界名作選書」を柱に、徐々に増加し、昭和二十三年(中略)、「金園社」として『小鳥の飼い方』を第一号に、実用百科の刊行を開始。

どのような事情と経緯で、大橋一族と故郷を同じくする松木玉之助が博文館を辞め、特価本業界に入ったかははっきりしない。だがこれも故郷が同じ坂東の成功に刺激された可能性が高いのではあるまいか。引用では省略したが、松木は新刊書店も経営していて、この業界によく見られるように、出版社と取次と書店を兼ねていたことになる。そしてここには記されていないけれど、出版社は金鈴社といって、戦後まで続き、それが金園社へと改称されたと考えていいだろう。

本連載209などで、金園社のボードレールの北上二郎訳『悪の華』にふれてきたが、この元版は昭和十三年に金鈴社から刊行された矢野文夫訳『悪の華』で、発行者は他ならぬ松木玉之助なのである。これもまた詳しい事情は不明だが、昭和九年の耕進社版の紙型を利用していると思われる。奥付には大売捌店として東京堂、北隆館、東海堂などの東京を始めとする全国各地の取次が挙げられているけれど、自社取次のマツキ書店は含まれていないので、金鈴社が通常の出版社・取次・書店ルートで流通販売される本を刊行する目的で立ち上げられたとわかる。

さすがにマツキ書店の流通販売ルートでは、翻訳詩集を売ることに無理があったからではないだろうか。それを示すかのように、『悪の華』は紙型の再利用ではあろうが、確かに「造り本」特有の印象は感じられない。私の所持する一冊が十四年の重版であるのは、通常ルートで流通販売されたからではないだろうか。この時期に出版された金鈴社の他の本も知りたいと思う。

戦後すぐの金鈴社の本として、石野径一郎編著『デカメロン』と、作者の記載のない『少年講談塚原卜伝』の二冊が手元にある。これらは時代とはいえ、仙花紙の粗末な造本で、『悪の華』の格調の高さは感じられない。しかし二冊を並べてみると、前者は戦前の金鈴社の企画の継承、後者は特価本業界の「造り本」の流れに属していて、双方の流れが金園社へと引き継がれたように思われてくる。だから前者が詩集類や「世界名作選書」、後者が「実用百科選書」の企画として結びつき、刊行されたのであろう。

後者については古本屋の均一台で拾い、とても感慨をそそられる三冊ほどについて、ここでふれておこう。まずそれらの二冊の書名を記すと、菅野清人著『標準謄写印刷の仕方』、矢部倉吉監修『古銭の集め方と鑑賞』で、いずれも昭和三十年代に刊行されている。それは古銭にしても、またガリ版とよんだほうがわかりやすい謄写印刷にしても、この時代に多くの収集家がいたり、その仕事に携わったり、利用したりする人々が広範に存在していた事実を告げている。

実際に『標準謄写印刷の仕方』の巻末には研究、文化団体、関連雑誌、学校・養成所、全国謄写技術者一覧、謄写版を業とするいくつもの会社の案内が収録され、この時代がまだまだ謄写版全盛であったことを伝えている。それに私たちの世代は誰もがガリ版を経験していることを思い起こさせる。この時期に数十年もすれば、タイプならぬパソコン全盛を迎えることになると、誰が予測したであろうか。古銭にいたっては集めたことはないにしても、山中共古に代表される集古会の人々が、古泉家であったことを知っている。古銭収集も戦前からの趣味に属し、戦後は衰退の道をたどった印象が強い。だがそれでもまだ読者は確実にいたのであろう。それを『古銭の集め方と鑑賞』は教えてくれる。

もう一冊は吉野竹次郎編『図解いろは引 標準紋帖』で、五千種近い紋章を収録している。「序」に図案、装丁、下絵の参考資料とあるが、その「応用価値」となっては想像もつかない。この本の巻末に六十余点の「実用百科選書」が掲載され、それらの多くの書名の「学び方」「習い方」「作り方」などに見られるように、「方」がつけられ、本を通じて学んだり、習ったりする時代の息吹を感じさせてくれる。
図解いろは引 標準紋帖

そしてここにあるすべての「実用百科選書」がこの時代の文化の残物で、現在では大半が実用として読まれないシリーズと化している事実を突きつける。本でひっそり学ぼうとする時代が終わったのはいつのことだっただろうか。それにここに記されている多くの著者の名前をほとんど知らない。ペンネームも多く使われているのだろう。あらためて特価本業界と実用書の世界にも、匿名に近いような多くの著者たちがいた事実を浮かび上がらせている。
「実用百科選書」
碁の学び方 (1955年)剣道の学び方 (1955年)お産と育児 (1957年)園芸百科全書 (1958年)

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