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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話288 貸本マンガ、手塚治虫、竹内書房

これは戦後編でと考えていたけれども、特価本業界に関してずっと書いてきたことからすれば、マンガにふれないわけにはいかないだろう。『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』も、「全版組合の歴史をたどる上で、マンガと貸本を除いては語れないものがある」と書いているからだ。だがそのような記述がなされているにもかかわらず、マンガと貸本についての証言は断片的であるので、それらをつなぎ合わせ、両者の流れを追ってみよう

昭和二十七年に東京出版物卸商業協同組合と全日本特価書籍卸商業協同組合が合併し、全国出版物卸商業協同組合が設立されることになる。この時期にマンガと貸本が密接に結びつき、昭和三十年代に貸本屋の全盛時代を迎えている。それは神戸で始まった貸本チェーンのネオ書房が、大阪や京浜地区に進出した時期と重なっている。

現在から見れば、信じられないことかもしれないが、この時期に大手取次は貸本マンガを刊行する小出版社と取引がなく、それは書店と業態の異なる貸本屋も同様であり、必然的に貸本屋と小出版社は全国出版物卸商業協同組合に属する小取次を利用するしかなかった。例えば、ネオ書房の取次は大阪の組合員で、東京支店も設けていた竹内書房が一手に引き受けていた。また多くの貸本マンガの出版社も組合員であった。これらの小取次や出版社に関しては「出版人に聞く」シリーズ8の『貸本屋、古本屋、高野書店』を参照されたい。同書において、具体的に取次や出版社名を挙げているからだ。
貸本屋、古本屋、高野書店
また戦後マンガの誕生もこれらの組合員の出版社によるものだった。昭和二十二年に手塚治虫『新宝島』を刊行し、大ベストセラーならしめた育英出版も、その名簿にしっかりと掲載されている。このベストセラーとなった『新宝島』が現在のコミックの始まりでもあったのだ。手塚治虫『ぼくはマンガ家』(大和書房)の中で、「これをきっかけに、赤本漫画ブームがまたたく間に関西を席巻した。と、東京もこれに呼応して、雨後の筍のように泡沫出版社が生まれ、赤本漫画家が、それこそ無数に出現した」と述べている。この手塚の「赤本漫画」「赤本漫画家」という証言は、マンガが赤本業界=特価本業界を揺籃の地としていたことをリアルに物語っている。

新宝島 ぼくはマンガ家 (角川文庫版)

それらの大阪の出版社は玩具菓子問屋街の松屋町(マッチャマチ)にあり、そこは東京の浅草蔵前か、アメ屋横丁のようなところだった。続けて手塚のさらなる詳細な証言を引いてみる。

 この界隈に十四・五軒の零細出版社ができて赤本を出していたが、それはたいてい問屋あがりの、出版とは無縁な一発屋で、漫画ブームをあてこんで転業したのであった。それらのうちの一軒で、小粒なFという出版社が、ぼくの初期の大半の作品を出していた。(中略)
 この主人は、突如として漫画の出版を止め、ぼくになんの連絡もないまま、ある日とつぜん、それまでのぼくの原稿を、無断で東京のT書房という出版社にたたき売ってしまった。T書房は、それをご丁寧にも出版社名を変えて、版も粗悪なものに変えて再版したものだから、とんでもないぼくのゾッキ本が、市場に出回ってしまった。(中略)新人漫画家にはよくある災難なのだ。

この「F」はすぐに不二書房だとわかるが、「T書房」は前述の竹内書房の可能性が高い。手塚の証言から判断すると、夜店や縁日で売る豆本サイズの判型に改版され、大量に売られた事実を伝えているのではないだろうか。

これは昭和二十五、六年の出来事と推測される。だがここで行なわれた紙型の売買と流通は、大阪と東京の出版社がすでに連携し、戦後のマンガ市場が形成されていたことを示している。その背後にはGHQによる日配封鎖から生じた、数百に及んだという小取次の簇生も作用していたと思われる。おそらく関西の赤本、貸本マンガ、カストリ雑誌などもそのような土壌から生み出され、活況を呈していったのである。それらのうちの大阪を発祥とする重要な雑誌として、ただちに『奇譚クラブ』を挙げることができよう。

そしてその中心にいたのが貸本屋と、全国出版物卸商業協同組合に属する小出版社や小取次であったことは疑いを得ない。講談社小学館などの大手出版社による『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』が創刊されるのは昭和三十四年のことであり、まだかなり先のことになるからだ。

とりわけ竹内書房は、東西に及ぶネオ書房の店主も兼ねた取次、貸本マンガが出版社として活躍したようで、『三十年の歩み』手塚治虫に関連する記述が見えている。

 『新宝島』『前世紀』『ロスト・ワールド』などといったマンガ本を大半は竹内書房が引き受け、東京の市会へ出していたし、手塚治虫も竹内書房の店頭へ現われ、東京のいろいろなマンガを研究していた(後略)。

前世紀 ロスト・ワールド

さらにネオ書房の進出に対する東京の貸本組合の結成、貸本組合と手塚を始めとするマンガ家たちとの親密な時代、全盛期には貸本屋ルートだけで、一点当たり六、七千部が発行されていたことなども述べられている。しかし貸本屋とマンガと組合の蜜月は昭和三十年代半ばに終わりを告げる。

貸本屋向けマンガや雑誌などに対する悪書追放運動が起き、貸本屋が衰退し、発行部数も二千部ほどへと激減し始めていた。その一方で前述したように、大手出版社によるマンガへの進出の影響が及び、まさに「貸本マンガの作家をごっそり抜いていったことが、貸本屋の不振と相まって貸本マンガが、ひいては貸本マンガの出版社を一挙に不振にした」のである。

それからすでに半世紀が過ぎ去ろうとしている。このようにして始まったマンガはかつての貸本屋ではなく、出版業界そのものが危機に陥っている状況の中で、生産のみならず、流通販売も含めて、どこに向かおうとしているのだろうか。

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