一九七一年に小田切秀雄は、古井由吉、黒井千次、後藤明生、阿部昭たちを「内向の世代」とよび、彼らが外部社会との対決を避け、内向的になっていることを批判した。しかしそのような批判も生じる一方で、「内向の世代」の作家たちは戦後文学において、これまでと異なるトポスやテーマに向かっているように思えた。それは出版史的にいえば、小田切の命名とパラレルに、河出書房新社から刊行されていた「新鋭作家叢書」にうかがうことができた。この全十八巻からなる「叢書」は主たる「内向の世代」の作家と作品が収録され、高度成長期と併走していた六〇年代における日常の変容を明らかに描いていた。
そこで「内向の世代」の作家たちが描いていたに日常の変容とは、初期の郊外の出現と形成に寄り添うかたちで表出しつつあったアトモスフィアともいうべきものだった。それは従来の都市や町や村がもたらすニュアンスとはまったく異なっていた。具体的に例を挙げると、古井由吉の土俗的なものへの注視、黒井千次の生活空間におけるゆらめき、後藤明生の団地空間の捉え方などである。
残念なことに『〈郊外〉の誕生と死』ではそれらのすべてに言及できず、古井由吉の『妻隠』(河出書房新社)だけにとどまってしまったので、ここで黒井千次の『群棲』(講談社)を取り上げておきたい。この作品は古井の『妻隠』とほぼ同時期に発表された『走る家族』(河出書房新社、集英社文庫)所収の同タイトルの作品と、『揺れる家』の八〇年代ヴァージョンであり、前二作をさらに深化させた短編連作集と見なせるだろう。それは「群生」という言葉が『走る家族』に見えているし、『揺れる家』に示された家や土地のエピソードも『群棲』と共通し、引き継がれているからだ。
このふたつの作品と『群棲』が異なるのは、前述したように後者が十二編からなる短編連作集であることで、そのために「物語の始まりにあたって、次のような注釈が付されていることだ。まずはそれは引いておかなければならない。
住宅地を南から北へと貫く一本の道がある。南に当る駅の方角から歩いて来た人は、やがて、すぐ突き当りになる短い路地が右へ折れているのを目にするだろう。
道に面した、路地の手前の角は木内家であり、先の角は滝川家である。そして木内家の奥に安永家、滝川家の奥には織田家がある。つまり、路地の入口では木内、滝川の二軒が向き合い、その奥では安永、織田の両家が対面している。
この作品は、路地をはさんでお互いに“向う二軒片隣”の関係にあるこれら四軒の家を主たる舞台とする。(後略)
「これら四軒の家」の住所は明確にされていないが、短編連作における様々な記述を拾ってみると、近くに団地と一群の建売住宅が並び、スーパーマーケットと高校がある。そして買物に「都心」に出ているし、渋谷から電車で一時間の距離に位置しているようだ。最後の短編「訪問者」の冒頭において、「さすがに郊外のせいか、空気がいいのかもしれないが」といったように、初めて「郊外」という言葉が表われ、『群棲』が郊外を舞台とする物語だと確認するに至るのである。あたかもそれは八一年から八四年にかけて書いてきた連作が郊外の物語だと、黒井自身があらためて認識したかのような印象すらも与えるのだ。実際に郊外がロードサイドビジネスの隆盛とともに消費社会化し、これまでにないリアルなトポスとして立ちあがってきたのも八〇年代に他ならなかった。
ここで戦後史をふり返ってみれば、一九七三年のオイルショックによって、高度成長期に終止符が打たれた。その社会的変動を予兆し、描くかのように出現してきたのが「内向の世代」の作家と作品であると考えられる。それゆえに彼らの作品が高度成長期に寄り添う大きな物語ではなく、小さな物語に映り、小田切秀雄による命名と批判が生じていた。そうした典型として、黒井の『走る家族』や『揺れる家』から『群棲』へと至る家や家族、住居や生活する場所をテーマとする作品が挙げられるであろう。
しかし『群棲』に象徴して表われているように、「“向う二軒片隣”の関係にあるこれらの四軒の家を主たる舞台とする」短編集において、大きな事件が起きるわけもなく、小さな出来事が積み重ねられていくだけだが、郊外のアモルフな日常の生活と家族の心象のゆらめきが、あまりにも生々しく表出している。それは高度成長期という大きな物語が進行するかたわらで起きていた、家族と住むことをめぐる紛れもないドラマでもあったことをも想起させる。したがって黒井千次に限らず、古井由吉や後藤明生にしても、外部社会と断絶した「内向」のドラマを描こうとしたのではなく、それと地続きになっている日常と意識の変容に焦点を当てているように思える。
『群棲』において、それらはどのような輪郭をもって示されているのだろうか。まずはこれらの四軒の家族構成とその事情、それに該当する短編を挙げてみる。最後に付け加えた田辺家は四軒の中に入っていないが、織田家の裏側に位置し、『群棲』では先住者として狂言回しのような位置にあるし、対象となる作品も見られるので、ここに加えておく。
*織田家/房夫・紀代子夫婦、二人の子供。―「オモチャの部屋」「二階家の隣人」「手紙の来た家」
*滝川家/尊彦・静子夫婦、子供たちは成人して独立し、夫は定年退職が迫っている中で、会社から釧路か秋田へ転勤を促されている。―「道の向うの扉」「水泥棒」「訪問者」
*安永家/勇造・雅代夫婦、二人の息子、祖母義子。―「夜の客」「買物する女達」「壁下の夕暮れ」
*木内家/昌樹・美知子夫婦、夫は失業中で、妻は家出したりするが、二人とも精神的に病んでいるようでもある。―「窓の中」「芝の庭」
*田辺家/古くからの住人田辺老人は家を新築し、二階をアパートにするが、入居者が火事を起こす。―「通行人」
これらの家族のすべてが「向う二軒片隣」という狭い空間に住み、それぞれの交流も描かれているけれども、映画における「グランドホテル」形式のように、一堂に会することはない。しかしひとつの家族が他の家族を映し出す鏡のような役割を果たして連鎖し、各家族が秘めている平穏でない日常の亀裂が浮かび上がってくる仕掛けとなっている。
その前提となるのは、そこがもはや共同体を形成しないトポスという現実だろう。それを象徴するのは四軒の家の夫がサラリーマンである、もしくはであったことで、かつての村や町に共通する農業や商業に基づく労働と祭をともにし、死者を追悼する共同体ではないことであろう。「壁下の夕暮れ」は「町会だより」に関する言及から始まる。そこには必ず黒枠の「謹んで御悔み申し上げます」と書かれた部分があり、他に比べて「唯一生きている記事」だとされているにもかかわらず、「知っている氏名にぶつかることはほとんどなかった」とも述べられている。
そのような「町」=郊外はどのようにして出現したのであろうか。それが織田家と田辺家を題材とする冒頭の一編「オモチャの部屋」に記されている。房夫と二人の子供の会話から、過去の記憶がたぐり寄せられていく。そのきっかけは田辺家の大きな桜の木が切られたことによっている。そして房夫は思い出す。自分が子供の頃にここに住んでいて、桜の木がすでに花を咲かせていたこと、古い大きな家があったこと、父の両親の死やその弟妹たちとの土地の分割相続が生じて、古い家が取り潰され、空地となったこと、それから幾年かして房夫がその一部に小さな家を建てたことなどを。
桜の花盛りの様子や白く散った花びらのひんやりとした感触の記憶から始まり、さらに失われた家とその空間も思い出されていく。房夫は子どもたちに古い家の間取りを再現しようとする。長火鉢が据えられた茶の間、自分と伯父のオモチャの部屋、ミシンが置かれていた母、もしくは祖母の部屋、暗い廊下、じめじめした風呂場、妙な匂いのする納戸などが幻視され、オモチャの部屋が現在の玄関のところにあったと類推する。そうしてそこで祖父が倒れて死んだこと、そこに死体も安置されたことも思い出された。
そうした記憶の喚起に伴うように、田辺老人が死者にたむける花のように紫陽花を手にして現われる。そして彼もこの土地と房夫の家のかつての記憶を語り出す。祖母の死、現在の台所の下にある井戸のこと、兄と小石を投げ込んだ記憶などが夢幻的な風景のように浮かんでくる。だがそれらは高度成長期以前に存在した「失われた時を求めて」のようで、「もしもいま明りをつければオモチャの部屋が忽ち消え失せ、子供達の靴の散らばる玄関に変りそうだった」。
だがそのような田辺老人も加わり、子供たちをも巻きこんだ房夫の夢想は、妻の紀代子の深夜の帰還によって破られる。夫の「ここにあった前のうちの中を案内してやったんだ」という言葉に対して、妻は「私、知らないわ、そのうち」と答えることに象徴されている。それでも夫はその話を続けるが、妻は白い紫陽花に気づき、話を遮り、それを問うので、夫は田辺老人が持ってきたと話し、「この通りの最後の古い家が消える」ことを伝える。すると妻はいう。「今から新しいうちを作って、あの御夫婦、あと幾年生きるつもりかしらね」と。
「オモチャの部屋」に表われた土地と家の過去を共有する房夫と田辺老人、そうではない紀代子の言葉、それから前述した「壁下の夕暮れ」に見られる住民と無縁の存在である死者たちに象徴される位相こそが展開されていく。『群棲』のそれぞれの物語の予兆のようにも思われ、それが郊外における混住のかたちだと告げているかのようだ。
◆過去の「混住社会論」の記事 |
「混住社会論」18 スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年) |
「混住社会論」17 岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年) |
「混住社会論」16 菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年) |
「混住社会論」15 大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年)) |
「混住社会論」14 宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年) |
「混住社会論」13 城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年) |
「混住社会論」12 村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年) |
「混住社会論」11 小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年) |
「混住社会論」10 ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年) |
「混住社会論」9 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年) |
「混住社会論」8 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年) |
「混住社会論」7 北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年) |
「混住社会論」6 大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年) |
「混住社会論」5 大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年) |
「混住社会論」4 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年) |
「混住社会論」3 桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」2 桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」1 序 |