深作欣二のやくざ映画といえば、ただちに『仁義なき戦い』ということになってしまうが、このシリーズ以外にも秀作があり、一九七〇年代において、『仁義なき戦い』と併走していたし、時代を生々しく表象する作品として送り出されていた。
それらを私の好みから挙げてみると、『血染の代紋』(七〇年)、『県警対組織暴力』(七五年)、『やくざの墓場・くちなしの花』(七六年)の三作になる。
これらの三作はいずれもほぼリアルタイムで、しかも映画館で観たこともあって、強いインパクトを受け、記憶に残ったことも言い添えておくべきだろう。
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またさらに付け加えれば、この映画館は商店街に位置し、少年時代から通い、私はここで映画に目覚めたのだ。だが郊外消費社会の隆盛に伴い、商店街の衰退とともに、この映画館も八〇年代に閉館し、いつの間にか解体されてしまったのである。
しかし本連載のテーマと深作欣二のやくざ映画がどのように結びつくのか、その組み合わせに疑問が生じるであろう。だがそれはいかなる映画であろうと、いかなる小説と同様に、時代と状況を反映させてしまうし、それが映画ならではのリアリティの発現と考えることもできよう。といって、もちろんこれらの三作すべてを取り上げることはできないので、ここでは『やくざの墓場・くちなしの花』だけに限る。この映画には大友克洋の『童夢』や前回の後藤明生の一連の団地小説でも見られなかった、団地におけるネガティブな象徴性が表出しているように思われるからだ。
それと同時に、先頃出た『キネマ旬報』(3/下)が「大島渚1932−2013闘いの記録」を編み、彼の全フィルモグラフィを収録し、また映画監督以外のプロフィルについても言及し、ひとつの追悼のための特集ならしめている。だがそこに俳優としての大島が抜けている。それは大島が『やくざの墓場・くちなしの花』に俳優として「特別出演」したことが等閑視、もしくは忘れられてしまっているのではないだろうか。
しかしそこで警察本部長を演じた大島は、冒頭で日の丸を背景にして、社会の治安維持と暴力団壊滅の必要性を訓示し、この映画の狂言回しの役割を務めている。大島のキャラクターと演技は、現在の暴対法下の警察官僚の姿を先取りしたようなイメージを示し、存在感もあって、忘れられない印象を残す。それにその役は山下耕作の『総長賭博』において、やはり日の丸を背後にして、右翼の黒幕として登場した佐々木孝丸を彷彿させるし、明らかに大島もそれを意識し、演じているように思える。またこの映画の脚本も『総長賭博』と同じく笠原和夫の手になるものなので、時代は異なるにしても、物語の進行と構成、登場人物たちのキャラクターは共通しているといえよう。
しかし渡哲也の東映第一回主演作品として、これも深作の『仁義の墓場』(七五年)の評価が高いことに比べ、『やくざの墓場・くちなしの花』は第二回、しかもこれもやはり渡が唄って流行歌となった「くちなしの花」(七三年)をタイトルに加え、主題歌としたこと、それでいて「芸術祭参加作品」などと謳われていたこともあって、ちぐはぐな印象を与え、どうしても『仁義の墓場』の陰に隠れてしまったように思える。
おそらく最初のタイトルは『仁義の墓場』と対になる『やくざの墓場』だったと考えられるが、前者の評価が高かった割には興行成績がよくなかったので、流行歌が割りこむことになってしまったのではないだろうか。それでも『渡哲也』(「シネアルバム」67、芳賀書店)を確認してみると、彼に『やくざの墓場・くちなしの花』でブルーリボン賞が贈られていることを知り、当時はそれなりに評価されたことにいささかの安堵を覚える。なお同書に収録された渡辺武信の「渡哲也と日活アクション映画の系譜」は秀逸な一文であることも断わっておこう。
それらはともかく、簡略に『やくざの墓場・くちなしの花』のストーリーを述べれば、渡が演じる黒岩は大阪府警の四課の刑事で、博徒である地元の西田組の専従捜査に携わっている。彼はかつて容疑者逮捕の際に射撃事件を起こしたことで、捜査の一線から外されていたが、広域暴力団山城組の、西田組の縄張りヘの侵出とそれらの事件がきっかけとなり、復帰したこと、その一方で射殺した容疑者の情婦と愛人関係になっていることなどが、ストーリーの進行につれて明らかになる。またその背後にある警察と西田組の癒着、金融業を営む警察OB組織と山城組の深いつながりも浮かび上がってくる。
西田組と山城組は賭場の借金をめぐって抗争となり、その渦中で黒岩、西田組の金庫番啓子=梶芽衣子、組長代行岩田=梅宮辰夫の三人は刑事とやくざの立場をこえ、愛人及び義兄弟という疑似家族を結んでいくようになる。それは啓子が黒岩の住まいを訪ねる場面から始まっている。
西田組と山城組の抗争の捜査に駆り出され、黒岩は徹夜明けの疲れた足取りで帰宅してくる。まだ明けやらぬ朝、高層団地が建ち並ぶ風景をバックにして、歩いてくる黒岩の姿がロングショットで映される。そのシーンに、これも同じく『仁義なき戦い』を担当している津島利章のパセティックな旋律の音楽が重なり、明け方の団地のある風景が何かしらの不安と鬱屈を孕んだものとして、観る者に迫ってくる。映画の中において、多くの団地の風景を目撃しているが、このようなディストピア的団地は多く描かれていないと思う。
黒岩はエレベーターで上がっていく。どうやら彼は団地の最上階に住んでいるようなのだ。エレベーターを出ると、部屋の前に啓子が待っていた。黒岩は彼女を部屋に招じ入れ、窓を開け、スタンドの電気をつける。風にカーテンが揺れ、スタンドの光で部屋が照らされ、団地における一人暮らしの黒岩の生活のリアルな実態を垣間見せる。そして黒岩は啓子にいう。
「人間の住むとこちゃうよ。下に降りていくより、こっから飛行機乗っていくほうが早いくらいの高さや!」
啓子の団地への訪れは黒岩に金を届けること、山陰地方らしき刑務所に入っている彼女の夫の面会への同行の依頼だった。それは西田組の岩田、啓子、その夫という三人のやくざ内の関係を、新たに岩田、啓子、黒岩という外部の刑事を含んだ関係へと転換せしめるものであった。刑務所でも啓子と夫の破綻を告げる面会の後、彼女と黒岩は鳥取砂丘を歩き、海を目前にする。
海を見ながら、黒岩は自分が満州の生まれだという。警官になったのも、引き上げてきて内地の人間にいじめられたので、喧嘩に強くなって仕返ししてやろうと思ったからだと。啓子もいう。父親は朝鮮半島の出身で、日本にきてずっと帰りたいといっていたけれど、簡易ハウスを転々としているうちに死んでしまったと。どうも面会で夫は啓子に朝鮮に帰れと罵倒したようで、彼女は海に入っていこうとする。それを止める黒岩と啓子、この砂丘と海のシーンは二人が否応なく結ばれる宿命のようにして描かれ、そこに「くちなしの花」が重なって流れるのだが、これは明らかにミスマッチで、ひとつのクライマックスシーンの感興をそぎ、破滅へと向かう二人を、歌謡曲で甘くくるんでしまうような気がする。
そして岩田も告白する。自分は朝鮮人だが、啓子は朝鮮人と日本人のハーフで苦労したから、黒岩と一緒になって幸せになってほしい。二人の仲を公然のものとするために、ついては黒岩に兄弟分になってほしいと。
かくして刑事の黒岩の団地生活の背後には満州という植民地が浮かび上がり、やくざの岩田と啓子においては在日朝鮮人問題が露出し、そのふたつのファクターがクロスした時、混住社会、もしくは疑似家族が出現していくのである。当然のことながら、このような混住社会と疑似家族の行方が破滅へと向かっていくことはいうまでもないことだ。そのような悲劇のための供物のようにして、ラストシーンにおいて、黒岩は射殺され、死んでいく。渡哲也はその悲劇を見事に演じきっているように思われる。
『やくざの墓場・くちなしの花』はDVD化もされ、レンタルで観ることもできるので、実際に観ていただければ、とてもうれしい。
◆過去の「混住社会論」の記事 |
「混住社会論」20 後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年) |
「混住社会論」19 黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年) |
「混住社会論」18 スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年) |
「混住社会論」17 岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年) |
「混住社会論」16 菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年) |
「混住社会論」15 大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年)) |
「混住社会論」14 宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年) |
「混住社会論」13 城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年) |
「混住社会論」12 村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年) |
「混住社会論」11 小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年) |
「混住社会論」10 ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年) |
「混住社会論」9 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年) |
「混住社会論」8 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年) |
「混住社会論」7 北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年) |
「混住社会論」6 大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年) |
「混住社会論」5 大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年) |
「混住社会論」4 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年) |
「混住社会論」3 桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」2 桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」1 序 |