かつて「図書館での暗殺計画」(『図書館逍遥』所収)という一文を書き、浦沢直樹の『MONSTER』にふれたことがあった。だがそれは二〇〇一年のことで、『MONSTER』はまだ連載中であり、完結していなかった。タイトルからわかるように、拙稿は主としてそこに描かれた図書館シーンへの言及だったが、マーク・イレルの『狂気の家畜人収容所』(二見書房)が物語の淵源ではないかとの推測も述べておいた。
その後〇八年になって、判型も大きくなり、新たに「完全版」と銘打ったA5版『MONSTER』全九巻が刊行された。そこで帯文に「コミック史上最高のサスペンス」と謳われた「完全版」をあらためて読んでしまった。たまたまその時に別のところで、ベンヤミンに関して書き、彼が児童書の古本を収集していたことを思い出した。またそれにスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』(ハヤカワ文庫)三部作、ネレ・ノイハウスの『深い疵』(創元推理文庫)などを始めとするスウェーデンやドイツの新しいミステリを読み、それらの背景が一九八九年のベルリンの壁の崩壊、ソ連邦解体であり、そうした現代史の流動を発端として生じた東西の混住が物語の前提となっていることに気づいた。そのことから混住の概念もさらに包括的に考えるべきだし、本連載にそれらも取りこんでいく必要性も覚えた。
まさに『MONSTER』はそうした作品の典型のように思われた。古い絵本の存在などにうかがわれるベンヤミンの痕跡、及びベルリンの壁崩壊に始まる一九八〇年代から二一世紀初頭にかけての現代史がクロスし、『MONSTER』の物語が立ち上がってくるのである。したがって『MONSTER』はベルリンの壁崩壊とそれに続くチェコスロヴァキアのビロード革命を背景とし、ドイツのデュッセルドルフ、ハイデルベルグ、ベルリン、ミュンヘン、さらにプラハ、ウィーンなどを舞台として展開されていく。
かつてのミステリやコミックのひとつのパラダイムでもあった東西冷戦という前提は、もはや過去の風景となり、それ以後の現代史の流動と混沌が物語を紡ぎ出す動因へと転化する。そうしたコミックの代表作として『MONSTER』を挙げることに躊躇しないし、多くの賛同も得られるのではないだろうか。
そうはいっても、この三千八百ページ近い『MONSTER』は、逃亡する主人公と探索される謎という物語のコアは明確であるのだが、ストーリーは現代史に寄り添って錯綜し、舞台はめまぐるしく変わり、謎がまた謎を生み出していく構造なので、第一巻の部分だけでもストーリーを紹介しておこう。
まず物語の時間軸について記しておけば、『MONSTER』のドラマと事件は一九八六年のドイツから始まり、東西の壁崩壊を経て、多くの犠牲者を出し、二〇〇一年にとりあえず終焉を迎えたとされる。それを追ってみる。八六年東ドイツの政府貿易局顧問リーベルトが西側に亡命を求め、デュッセルドルフに住むことを希望した。彼は妻と双生児の兄妹を連れてきていた。しかし夫妻は仮住まいの屋敷で何者かに襲われ、殺害された。子供は生き残ったが、兄は頭部に弾丸を受け、瀕死の重傷を負い、妹は外傷はないものの、激しいショック状態に陥っていた。二人はアイスラー記念病院に収容され、少年は日本人の天才的脳外科医テンマの執刀によって、かろうじて救われる。そのきっかけは、ドイツにおけるトルコ人問題も絡んでいた。警察はリーベルト一家事件を東側による犯行と見なし、捜査を進めたが、犯人は不明のままだった。
続けて同病院の院長ハイネマンを含む三人の医師が硝酸系毒物入りキャンディで殺害され、リーベルト兄妹は病院から姿を消していた。警察の必死の捜査にもかかわらず、有力な手がかりはつかめず、殺人事件と双子の失踪の関連もわからず、事件の真相は明らかにならなかった。そのような状況にあって、ドイツ連邦捜査局から派遣されたルンゲ警部だけがテンマに疑いの目を向けていた。テンマは双子の兄の手術のために、急患のデュッセルドルフ市長のオペを断わり、市長は死亡し、そのことでテンマは将来の座も、院長の娘との婚約も破棄された。それはハイネマンによるもので、テンマに代わったのは院長の取り巻きの二人の医師であり、この三人が殺害されたからだ。これらの事件を前史として、『MONSTER』は進行していく。
そしてその九年後の一九九五年に、デュッセルドルフのアイスラー記念病院で再び事件が起きていく。東西ドイツは統一され、東側からの人々の流入によって経済の混乱と治安の悪化が生じた時代でもあった。その頃、ルンゲ警部が捜査していたのは中年夫婦連続殺人事件で、それらの夫婦に共通しているのは、裕福で子供がいないことだった。ルンゲ警部はこの連続殺人事件に錠前破りのプロのユンケルスが関与していると考え、彼が交通事故で入院したとの情報を得て、デュッセルドルフの病院に駆けつけると、その主治医はアイスラー記念病院の外科部長テンマだった。ルンゲ警部は八六年における三人の死により地位を得て、最も恩恵をこうむったのがテンマだと知り、再び疑惑を抱く。
一方でテンマは手術によって回復したユンケルスから「モンスターが……来る……」という言葉が発せられるのを聞く。だがルンゲ警部の尋問に対しては頑なに黙秘を続け、ある日病院近くの廃ビルで射殺され、発見される。テンマはその殺害犯人を見たと名乗り出て、それが失踪した双子の兄ヨハンであり、中年夫婦連続殺人事件も九年前の三人の毒入りキャンディ殺人事件も、彼の仕業だと証言する。しかしルンゲ警部はテンマが二重人格者で、自らが犯した殺人をヨハンという架空の人物に押しつけていると考え、テンマが再重要容疑者となっていく。
そうした状況下で、テンマはドイツ各地を訪れ、中年夫婦連続殺人事件を追い、いずれの夫婦にも養子か里子らしき男の子がいて、その少年の妹がハイデルベルグにいることを突き止める。そのハイデルベルクでも、衝撃的事件が起きる。フォルトナー夫婦にはハイデルベルク大学に通うニナという娘がいたが、夫婦は惨殺され、彼女は行方不明になる。このニナが双子の片割れ、ヨハンの妹なのである。これらの殺人をめぐって、テンマは重要参考人として追われることになり、彼は逃亡者にして探索者ともなり、ヨハンとニナの背後に潜む謎を追跡していく。
ここまでが第一巻のストーリーの要約だが、その後にたどられていく『MONSTER』の重要なトポスを記しておけば、東ドイツに存在した施設511キンダーハイムが挙げられる。そこは東ドイツ内務省が管理する政府の実験場で、孤児たちを完璧な兵士に育て上げる場所だった。だがそこで行なわれた授業は言葉による殺し合い、勝ち抜きゲームのようなもので、相手を支配する最大の武器は暴力でも武器でもなく、言葉だと教えこみ、カリスマとなる訓練だった。ヨハンとニナはここにいたのだった。しかも二人はドイツ人ではなく、チェコスロヴァキア人と考えられた。
ミュンヘンに現れたヨハンはミュンヘン大学図書館の一般閲覧禁止区域の図書類の中にあった絵本を見て、突然失神する。そのタイトルは『なまえのないかいぶつ』で、作者はエミール・シェーベ、版元はチェコのプラハのモラヴィア出版だった。まだまだ謎は積み重ねられていくのだが、これ以上は『MONSTER』を読むことによって、直接確認されたい。
さてぎこちない紹介になってしまったけれど、これで『MONSTER』の歴史的背景が、最初に示したベルリンの壁崩壊やチェコのビロード革命を通じてもたらされた、ヨーロッパの様々な国籍を有する人々の混住状況にあることを了承されるだろう。それらの物語配置はリアルで、しかもコミックのナラティブの進化を実感させるのだが、それにもまして興味深いのは『MONSTER』に流れこんでいる、先行するコミック、ミステリ、文学、映画の痕跡である。しかもその手法はメタコミックという試みにも挑んでいて、ひとつのポストモダニズムの、コミックにおける実験のようにも読めるのである。これもコミックに表出する様々な文化ファクターの混住といえるのではないだろうか。もちろんすべてにふれることはできないが、それらのいくつかをたどってみる。
まず『MONSTER』は手塚治虫へのオマージュとして描かれ、それは主人公の名前と職業に表われている。主人公のドクター・テンマの名前は『鉄腕アトム』の天馬博士、職業の医師はもちろん『ブラック・ジャック』、ドイツを舞台とすることは『アドルフに告ぐ』に範を求められる。
またデュッセルドルフにおける殺人とモンスターの出現は、コリン・ウィルソンの『殺人百科』(弥生書房)、双子の兄妹はアゴタ・クリストフの『悪童日記』(ハヤカワ文庫)三部作、ルンゲ警部はトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』(新潮文庫)から引かれ、テンマの逃亡者にして捜索者の設定は、テレビや映画の他ならぬ『逃亡者』を原型としていると思われる。さらに付け加えれば、ベンヤミンもまたドイツからの逃亡者だったのだ。
つまり『MONSTER』のキャラクター、ストーリー、物語のパラダイムは先行するコミック、ミステリ、文学、映画などからの自在な引用によって構成され、そこにコミックのこれまでになかった進化をみることができるように思う。しかもそれは浦沢直樹と脚本担当の長崎尚志のコラボレーションによって可能となった世界であり、浦沢のコミック世界は長崎を得ることで、講談の系譜を引く梶原一騎や小池一夫の原作世界から離陸し、早川書房を始めとする翻訳ミステリを自家薬籠中のものとする若い原作者へと移行したといえるのかもしれない。ここでは二人のコラボレーション、長崎の原作について、『MONSTER』しかふれられないが、いずれ本連載で後述することになろう。
さらにそこには現代文学からの地続きの引用も見られ、『MONSTER』の主要な登場人物がコインロッカーで生れたとの設定は、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を反復し、これから述べるメタコミック的仕掛けは、村上春樹の『風の歌を聴け』からヒントを得ているのではないだろうか。
『MONSTER』は本編の他に、前述したエミール・シェーベの『なまえのないかいぶつ』が浦沢直樹訳で連載中の九九年に出され、完結後の〇二年に「もうひとつのMONSTER」として『ANOTHERMONSTER』がヴェルナー・ヴェーバー、浦沢直樹共著、長崎尚志訳で、いずれも小学館から刊行されている。前者は『MONSTER』の中で物語を導く絵本、後者は『MONSTER』のノンフィクション版ともいうべき位置づけとなり、本編はこれらの二冊によって物語をさらに補強され、あたかも実在した事件であるかのように仕立てられたことになる。この二冊は翻訳書であるかのようによそおっているが、翻訳権クレジット表記からフェイクであることは明白だ。
しかしこのような仕掛けは、村上春樹が『風の歌を聴け』の仲で、架空の作家デレク・ハートフィールドと同じくその架空の作品のいくつかを登場させ、さらに念入りに村上が「ハートフィールド再び」という「あとがき」で、彼の伝記らしき一冊を挙げ、フィクション『風の歌を聴け』に対し、ノンフィクション的仕掛けを施していることにならっているのだろう。
そうした意味において、『MONSTER』三部作もまた、先行する様々な物語の混住に他ならず、それはすべてが混住するに至るグローバリゼーションの時代のメタファーになるのかもしれない。
なおブノワ・ペーターズ作フランソワ・スクイテン画『闇の国々』(小学館集英社プロダクション)は、そうした時代を象徴する国々の混住を描いたフランスのバンド・デシネ=コミックとよんでいいのかもしれない。
また、これはすでに書いているので、付記しておくが、本ブログ[ブルーコミックス論]で、長崎尚志の別名義、江戸川啓視原作の『プルンギル―青の道―』、『青侠ブルーフッド』を論じているので、こちらも読んで頂ければ幸いである。
◆過去の「混住社会論」の記事 |
「混住社会論」21 深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年) |
「混住社会論」20 後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年) |
「混住社会論」19 黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年) |
「混住社会論」18 スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年) |
「混住社会論」17 岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年) |
「混住社会論」16 菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年) |
「混住社会論」15 大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年)) |
「混住社会論」14 宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年) |
「混住社会論」13 城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年) |
「混住社会論」12 村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年) |
「混住社会論」11 小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年) |
「混住社会論」10 ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年) |
「混住社会論」9 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年) |
「混住社会論」8 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年) |
「混住社会論」7 北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年) |
「混住社会論」6 大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年) |
「混住社会論」5 大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年) |
「混住社会論」4 山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年) |
「混住社会論」3 桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」2 桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年) |
「混住社会論」1 序 |