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古本夜話304 三教書院「袖珍文庫」と集文館「日本歴史文庫」


新島広一郎の『講談博物志』に、シリーズとしての掲載ではないけれど、立川文庫のところで、三教書院の「袖珍文庫」の書影を掲載している。それは脇坂要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』で、立川文庫は東京のアカギ文庫にヒントを得たと述べられているが、足立巻一が『立川文庫の英雄たち』(中公文庫)において、三教書院の「袖珍文庫」が通説だと書いていることによっている。つまり新島も足立説を支持していることになる。
立川文庫の英雄たち
本連載では入手していなかったり、読んでいなかったりするものは取り上げないことを原則としてきた。しかし三教書院の袖珍文庫はこれからも入手の可能性が低いように考えるしかないので、ここで書いておきたい。実はこの袖珍文庫と発行者の鈴木種次郎についてはその後の行方も含め、ずっと以前に目にしていたからだし、発行者の鈴木は本連載225でふれた前川文栄閣の前川又三郎の取り巻きの一人だったようだ。小川菊松が『出版興亡五十年』の中で、明治の文庫本で強い印象を残したのは冨山房の名著文庫と三教書院の「いてふ本」だと述べ、後者について次のように書いている。
出版興亡五十年

 「いてふ本」というのは、鈴木種次郎氏が自分の趣味から案出して出版したもので、明治四十三年に第一冊を出し、最初五十巻という予定が六十冊になっている。四六半裁という最小の小型本で全部六号組、紙数は三百頁乃至四百頁、布綴薄表紙で、一冊二十五銭、標題は「袖珍文庫」であつたが、表紙の意匠にいちようの葉が用いてあつたので、一般には「いてふ本」で通つていた。その通称が出来たほど能く売れて儲けたのだが、遂に文庫本の末路のお多分に洩れず、鈴木氏は却つてそれがために失敗し、後、令兄氏の修文館が引き受け出版したが、やはり思わしい成績でなかつた。

これが「袖珍文庫」解題ということになるが、ここに出てくる「令兄氏の修文館」は、明治後期から大正にかけて中学教科書を手がけていた鈴木常松の修文館と見なしていいだろう。おそらく小川がいう「粋人」の鈴木種次郎は修文館の東京支店担当の立場で、同じく大阪を出自とする「美本組」金尾文淵堂などを通じて、これも同じ前川文栄閣と交流するようになり、古典類に対する自らの趣味を内容に反映させた「袖珍文庫」を、三教書院名で創刊に及んだのではないだろうか。

そしてそのB7判の文庫判型が立川文庫の範になったと、『講談博物志』には両者の書影が同じページに掲載されているが、さすがに「袖珍文庫」の表紙の意匠の「いてふ」の葉は確かめられないにしても、その表紙のレイアウトなどの共通性はよく伝わってくる。それを見ると、立川文庫のモデルは「袖珍文庫」にあったと納得させられるのである。しかし小川の説明によれば、「袖珍文庫」は修文館が引き受けたはずだったのに、別のところにそれを見出すのである。

それは本連載297で取り上げた集文館の「日本歴史文庫」の巻末広告においてであり、そこには「袖珍文庫」が二ページにわたって六十四冊並んでいて、最後に「続」と記され、刊行中であることが示されていた。念のために巻数と内容をチェックすると、『講談博物志』掲載は第十六編『古今集』、第二十六編『雨月物語・諸道聴耳世間猿』だが、それらは広告とぴったり重なり、これが紛れもなく三教書院版を引き継いだ「袖珍文庫」だとわかる。

「袖珍文庫」創刊が明治四十三年六月、立川文庫は同四十四年、「日本歴史文庫」の広告掲載は同四十五年なので、ほとんど連鎖していると見ていい。それに集文館版がその時点で六十七冊まで出されていることは、小川がいう鈴木種次郎の「失敗」と「文庫本の末路」とのタイムラグがない。この事実は三教書院編集部が東京に置かれていたために、修文館ではなく集文館が引き継いだこと、もしくは修文館と集文館が在庫をそのまま引き受け、両館がその三教書院の「失敗」と「文庫本の末路」の跡始末に携わったことを示しているのかもしれない。だがそれも「やはり思わしい成績ではなかつた」と小川は証言している。

修文館と集文館は字が異なる同名の出版社だし、いずれも中等教科書と学参、辞書をメインにしていたことから、深い関係にあったと考えられる。だがもうひとつ考えられるのは、小川の修文館は集文館の間違いであり、集文館だけが「袖珍文庫」を引き受けることになったのかもしれない。

この時代の文庫は全巻を揃えることが難しく、始まりは解明できても、その最後の場面までをたどるのは容易ではない。それに三教書院や立川文庫の小型本が出るまで、文庫は叢書を意味し、大正に入ってから小型本に文庫が用いられるようになったのである。その両者を意味するような「日本歴史文庫」にしても、巻末広告から明治四十五年段階で二十数冊を刊行しているとわかるのだが、すると創刊年はかなり遡ることになる。
これもまた小川の証言によれば、岡田文祥堂が小型の叢書で最も古い「日本歴史文庫」を手がけ、三十冊出したところで失敗に終わったという。集文館阪はこれを引き継いでいるのだろうか。なお『大阪出版六十年のあゆみ』において、明治末期に岡田菊二郎の文祥堂は現われてきたと記されている。

このような文庫事情に加えて、東京と大阪の教科書、学参業界、特価本業界の複雑な流通販売ルートが絡み合い、錯綜していたことは想像に難くない。そのような環境の中で出され続け、読み捨てられ、散逸の道を一途にたどるしかなかった講談本を収集することは困難きわまりないことで、新島広一郎はよくもそれを実現させたかと思い、賛嘆の念を禁じ得ない。

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