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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話314 淡海堂と南川潤『心の四季』

前回、梧桐書院が淡海堂系列の出版社であることを記しておいたが、淡海堂については『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中にまとまった紹介がなされていない。本来であれば、淡海堂と酒井久三郎はこれまでに取り上げてきた春江堂、大川屋、河野書店などと並んで、特価本業界の立役者の一人であるから、彼らと同様に一ページを割き、顕彰されてもしかるべきだと思われるが、昭和五十五年時点で、淡海堂自体が消滅していたことも作用しているのか、わずかな言及しか残されていない。

これは私も『書店の近代』(平凡社新書)の中で引いているし、『三十年の歩み』も同様であるのだが、小川菊松が『出版興亡五十年』において、淡海堂の酒井がアルスの円本『日本児童文庫』を一冊三銭で三十万部引き取り、その処分に七年を要したと証言している。これはよく知られた話であり、当時の淡海堂と酒井の位置を示していることもあって、淡海堂と酒井の名前は『三十年の歩み』に頻出している。
書店の近代  出版興亡五十年

たまたま『ロシア文学翻訳者列伝』の硨島亘から恵贈された夏川清丸(帆刈芳之助)の『出版人の横顔』(出版同盟新聞社、昭和十六年)に、淡海堂の二代目の酒井久二郎の立項があるので、それを要約してみる。

ロシア文学翻訳者列伝 (金沢文圃閣復刻、第1巻『出版人の横顔』)

先代酒井久三郎は滋賀県出身で、幼くして両親を失い、天涯の孤児となり、一時は労働者の群れに身を投じ、人生の辛酸をなめつくしたが、後に書店を開業したことが開運の端緒で、通俗書の出版と特価本卸業で頭角を現わし、業界の第一人者を謳われるに至った。しかし先年富と功績を残し、他界したので、慶応大学経済学部を出た長男久二郎が跡を継ぎ、「高級書の出版」も加え、出版新体制下での特価本業界の再編に奔走努力している。

この当時の淡海堂の動向については『三十年の歩み』の中で、「大衆小説、少年少女小説、童話、『歴史文学双書』などを出版、なかでも『生活の設計』は重版に重版を重ね、『生活の設計』という言葉が新聞雑誌などに用いられて一種の流行語になった」とレポートされ、こちらが二代目時代を意味していることになろう。おそらく「高級書の出版」とは、内容は判明していないけれど、「歴史文学双書」のようなものをさしているのではないだろうか。

それらは入手していないが、「少女小説」だけは一冊購入していて、それは昭和十六年発行、十七年再版の南川潤の『心の四季』である。南川はもはやほとんど忘れ去られてしまった作家であろうし、読まれることもないと思われるので、『日本近代文学大事典』の立項を見ておこう。

日本近代文学大事典

 南川潤 みなみがわじゅん 大正二・九・二〜昭和三〇・九・二二(1912〜1955)小説家。東京生れ。本名秋山賢止。慶大英文科卒。昭和二一年一二月『掌の性』(昭和二一・六 美紀書房)により第二回、翌一三年『風俗十日』(昭和一四・二 日本文学社)で第三回三田文学賞を連続受賞。学生作家として注目を浴び、(中略)ただちに作家生活に入った。軽快な筆致で青年男女の恋愛模様をえがいた都会主義的な風俗小説には、洗練された新鮮味があったが、おりからの非常時的戦時体制に合致せず、(中略)桐生に疎開したまま戦後を迎え、中間小説家として復帰したが、持病の心臓病のため上京もできず、(中略)才能を結実せぬまま急逝した。

このような南川のプロフィルから、才能と時代状況がうまく折り合わず、少女小説を書き、特価本業界の出版社から刊行し、戦後は中間小説家の道をたどっていくという典型的なパターンが浮かび上がってくる。

だがそうした南川の作風と心象を暗示するかのように、『心の四季』の、安本永による装丁表紙と本扉の絵、口絵はとても繊細可憐な印象を与え、「非常時的戦時体制」下における特価本業界のニュアンスを感じさせない。それに奥付捺印に南川とあるので、この最初の少女小説集によって、彼がまとまった印税を得ることができたことに少しばかりの安堵を覚える。

『心の四季』は中編「心の四季」、短編「新しき目」「光ある道」の三編を収録しているが、それらは銃後の少女小説と称してよく、それでいて、いずれも安本の装丁と照応する、上ずったところのない端正な作品と見なすことができる。これらの作品は『少女画報』に掲載されたもので、「序にかへて」はその編集長だった野長瀬正夫が記し、「此の三つの少女小説は、小説の形式として新しいだけでなく、その精神に於ても、いはゆる『お涙頂戴』式な、古めかしいセンチ小説とは全く種類を異にした物ばかり」だとの自負を述べている。ちなみに野長瀬は詩人で、後に児童文学者となっている。

国木田独歩の独歩社に起源を発する『少女画報』は同じ東京社の『コドモノクニ』や『婦人画報』とともにグラフィック誌であると同時に、少女小説を柱とし、吉屋信子の、『花物語』(復刻 国書刊行会)を始めとする多くの作品が生み出された。これらについては本ブログでも一本書いているし、『少女画報』の表紙も多く収録されている、鷹見本雄『国木田独歩の遺志継いだ東京社創業・編集者鷹見久太郎』を参照されたい。

花物語 コドモノクニ  

しかしこの歴史ある『少女画報』も戦時体制下にあって、昭和十七年に実業之日本社の『少女の友』と合併し、終刊となっている。そうした時期を控え、編集長で、南川の「親友」である野長瀬は退社することになり、淡海堂での少女小説の企画に携わったのではないだろうか。巻末広告を見ると、「最新刊少女小説」として、堀寿子『早春の合唱』、福田正夫『白薔薇の唄』『路傍の花』などが掲載されている。これらも『少女画報』に連載されたものだと推測される。このようなルートが様々にクロスし、本連載293の黎明社(金の星社)などに加え、特価本業界の児童書出版が形成されていったのではないだろうか。

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