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混住社会論32 黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)

地獄の警備員


もう一本、映画を取り上げてみる。黒沢清も多くのVシネマを送り出し、彼自身が命名した「日本のジャン・ポール・ベルモンド」である哀川翔とのコラボレーションで、九〇年代半ばからの「勝手にしやがれ!!」六部作、「復讐」「修羅」の各二部作などへと結実させる。またそれらとパラレルに役所広司と組み、『CURE/キュア』に始まり、『カリスマ』降霊『地獄の警備員』『回路』と続いていくサイコホラーシリーズも提出していく。

勝手にしやがれ!!    復讐  修羅

CURE/キュア  カリスマ  降霊  回路

そして黒沢は三池崇史青山真治と同様に、国際的にも高い評価を受けるようになっていくのだが、ここではそれ以前の九二年の『地獄の警備員』を取り上げてみたい。この作品は従来のホラー映画のコンセプトを組み替えてしまったと思えるからだ。共同脚本は富岡邦彦、また助監督は青山真治が務めている。

私は本連載17のスティーヴン・キングのところで、キングのホラー小説の特質がブラッティの『エクソシスト』(創元推理文庫)などの先行するホラー作品群と異なり、本質的に外から襲ってくるものではなく、郊外それ自体やそこで暮らす家族や夫婦が孕んでいる罅(ひび)のようなものが生み出してしまうものだと指摘しておいた。またアメリカの戦後の郊外におけるSFからホラーへの流れについても。

エクソシスト (小説) エクソシスト (映画)

同じように七〇年代前半のアメリカの『エクソシスト』に始まり、スプラッターホラーへ継承されていったホラー映画の、日本における転換がこの黒沢の『地獄の警備員』によってもたらされ、それが『CURE/キュア』を始めとするサイコホラーへと引き継がれていったと見なせるだろう。それゆえにこそ、その原点としての『地獄の警備員』が今一度考察されなければならないのである。まずそのストーリーをたどってみる。

舞台は急成長しつつある総合商社曙商事のビルで、ヒロインの秋子(久野真紀子)がタクシーに乗り、訪れていく冒頭のシーンから推測すると、このビルは郊外に位置しているようだ。そのタクシーの中で、富士丸という元相撲とり(松重豊)が精神病院から抜け出したと聞かされる。これがイントロダクションである。

秋子は曙商事の新入社員で、新設の12課に配属され、出勤してきたのだが、新人はもう一人いて、それは巨漢の警備員で、他ならぬ富士丸であることが次第にわかってくる。そしてある日、古参の警備員がロッカーの中に折り畳まれ、無残な死体となっているのを同僚が発見する。これが富士丸による恐怖の殺人の始まりで、本来であれば、ビルの人間を守るべき警備員によって、凶行が重ねられていく。かくして脱出不可能なビルの中で、殺人を繰り返す警備員と、恐怖の中で動き回る社員たちの地獄におけるようなサバイバル闘争の幕が上げられたのである。
地獄の警備員

このようにストーリーだけを追えば、『地獄の警備員』はエンターテインメントにしてシンプルなホラー映画に分類できるし、そうした地平をめざし、この映画が制作されたと見て間違いないだろう。しかしどうして元相撲とりが精神病院を抜け出し、ビルと人間を守る警備員になったのか、その守る立場の警備員がどうして同僚や社員を襲い、殺人を繰り返すようになったかの謎はまったく明かされないのだ。秋子は「どうしてこんなことをするのか」と問う。すると警備員は「それを知るのは勇気がいるぞ」と答える。だがそれ以上の答えは返ってこない。したがって血まみれの死体が繰り返し映し出されても、ホラーの核心の謎は富士丸の大きな身体の中に埋めこまれ、不可視のままに処理され、警備員の服をまとった正体不明の殺人者として、不気味なモンスター的印象だけを残し、映画は終わる。

『地獄の警備員』を観ていて想起されたのは、スピルバーグのデビュー作といっていい『激突!』である。この映画は周知のように、カリフォルニア州を西に向かっていた平凡なサラリーマンが理由もなく巨大なタンクローリーに追い回され、殺されかけるストーリーである。その巨大なタンクローリーは外観を見せるだけで、運転手は姿を見せないことで、その不気味さと恐怖は比類なく高まり、それはアメリカの郊外のメタファーのように思われた。『地獄の警備員』における富士丸の大きな身体は、『激突!』の巨大なタンクローリーと通底しているのではないだろうか。
激突!!

また『激突!』と同時に、ひとつの小説も思い出された。それは筒井康隆の「走る取的(とりてき)」(『メタモルフォセス群島』所収、新潮社)である。この八〇年に書かれた短編は副都心の裏通りの小さなバーから始まる。信田と亀井は同窓会の打ち合わせのために学生時代によくきたこのバーに寄った。そのバーの片隅で幕下力士らしき巨大な肉体の相撲とりがひとりで飲んでいた。二人の友人が相撲とりのように肥り出したという話を耳にし、自分のことをいっていると誤解したらしく、その取的は彼らをすごい目でにらんでいた。軽薄な彼らは人気商売の相撲とりが喧嘩を仕掛けてくると思わなかったので、大銀杏(おおいちょう)じゃなくて、丁髷(ちょんまげ)だから幕下の取的だとか、褌かつぎだとかわざと聞こえるように話していた。それから取的を見ると、向こうも見つめ返し、その不気味な印象は「とてつもなくいやな、まがまがしいことの起りそうな予感」を生じさせた。
メタモルフォセス群島

そこで二人はバーを出て、逃げるように路地に入ったが、取的が巨体からは信じられないスピードで彼らを追いかけてきたのだ。二人は路地から大通りに出て、歩道を逃げ続け、取的では入ることができない繁華街の高級クラブへと避難し、二時間を過ごす。もう大丈夫だと思い、二人はクラブを出たのだが、駅に向かう人ごみの中に取的がいて、すぐに彼らを見つけ、こちらへと駆け出してきたのだ。その時の二人の行動と心的現象を引用してみる。少し「走る取的」に関する言及が長くなってしまうけれど、この部分は『地獄の警備員』の中で、襲われる秋子たち、『激突!』で巨大なタンクローリーに追い回される主人公のそれを代弁しているように思われるからだ。

 おれたちはわけのわからぬ悲鳴を続けさまに発しながらからだの向きを変え、死にものぐるいで走りはじめた。あの取的は、恐怖で常識を失うほど取り乱した今のおれたちにとって、もはや人間ではなかった。化けものだった。どんなに遠くからでもおれたちの居場所を知ることができるけものじみた嗅覚が、あるいは非人間的な超感覚、異常知覚を持っているえたいの知れない変な生きものであった。しかも彼は時間を超越してまでおれたちを追ってくるのだ。(後略)

そして「おれたち」は電車に乗り、郊外の駅で降り、さらに逃げようとするが、取的はついに二人を捕え、彼らは殺されてしまうのである。

『地獄の警備員』『激突!』「走る取的」の三作に共通しているのは、日常生活における大きな異形のものの襲来である。しかもそれらはエイリアン、サイコキラー、ゾンビ、怪獣などではなく、安全の象徴たる警備員、見馴れたタンクローリー、相撲とりとして出現し、平和な日常に潜んでいる正体不明の謎を表象しているかのようでもある。

とりわけ『地獄の警備員』が開示したのは、そのようなもので出会ってしまったら、もはやかつての日常生活に戻ることができないというビジョンだったのではないだろうか。そして『CURE/キュア』以後の黒沢のサイコホラー映画は、そうしたこちら側と向こう側を往還する構図を形成しているとも思われる。もちろんこちら側を向こう側とは生と死の世界であり、大きな異形のものとは死のメタファーに他ならないだろう。それは「走る取的」の引用文にも明らかであるが、筒井はその後に「そんなやつから逃げのびることは不可能なのではないだろうか。そうだとも。絶対に不可能なのだ」とも書き加えている

また「走る取的」の二人が郊外の駅で殺されてしまうこと、『地獄の警備員』の郊外に位置するらしい、閉ざされたビルもまた、八〇年代から九〇年代にかけて成長し、都市でも地方でもない郊外の不気味さを暗示しているかのようだ。「走る取的」『地獄の警備員』の成立にヒントを与えたかどうかは明らかでないとしても、両者において、取的と警備員が死の表象であることは共通していよう。


◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1