一九八〇年代にビデオの時代が到来し、それに伴うレンタル店の増殖によって、多くの未知の外国映画を観ることができるようになった。それらの監督の中で、とりわけ私を魅了したのは二人のデイヴィッドである。その一人のクローネンバーグについては本連載18で、スティーヴン・キングの『デッド・ゾーン』を見事に映画化した監督として少しだけふれておいたが、ここではもう一人のリンチを取り上げよう。
それはもし八〇年代にビデオで観た外国映画を一本と問われれば、ただちにリンチの『ブルーベルベット』を挙げるであろうし、この一作は日本においても様々な分野に多くの影響を及ぼしたと見なせるからだ。先に続けて三池崇史、青山真治、黒沢清の映画に言及してきたが、彼らの映画における新たなホラーと映像の出現やかたちも、『ブルーベルベット』に表象された謎や色彩と無縁ではないように思える。
そしてまた、近年突出して派生したと考えられる、タイトルに「ブルー」、もしくはそれに類似する色を含んだコミックに注目し、本ブログで「ブルーコミックス論」として、こちらも一年ほど連載してきた。このコミックの分野においても、もちろん作品によってだが、『ブルーベルベット』の影響は明らかだった。ところが残念なことに、一度はふれなければならないと思いながらも、『ブルーベルベット』に言及する機会を得ずして、終わりを迎えてしまったのである。それがずっと気になっていたので、ここでぜひ書いておきたいのだ。
あらためて『ブルーベルベット』が八六年の映画であることを確認すると、すでにあれから四半世紀以上が過ぎていることに気づく。それと同時に、日本の八〇年代がロードサイドビジネスの全盛で、郊外がそれらの風景に覆われ、アメリカ的消費社会の出現の時代だったことを思い出す。それは日本の郊外の風景をドラスティックに転換させ、均一化、画一化させていったディケードでもあった。
さらに付け加えれば、日本の八〇年代は産業構造的にアメリカの五〇年代とまったく同化し、それを象徴するように、八三年には東京ディズニーランドも開園し、バブル景気も続いていたし、消費とエンターテインメントの時代が花開きつつあった。考えてみれば、郊外消費社会も混住社会もアメリカをルーツとしていた。
そのような日本の時代状況の中に、『ブルーベルベット』は忽然と現われたのだ。しかもその時代と舞台はアメリカの五〇年代の郊外と想定され、そこで起きる事件がテーマであり、それは日本の八〇年代とも、見えないタイムトンネルでつながっているようにも思われた。
リンチの名は『エレファント・マン』の監督として記憶されていたが、『ブルーベルベット』のような時代と舞台を背景とする映像世界は予想外だった。それにアメリカのみならず、日本においても社会現象ともなった、アメリカのテレビドラマ『ツイン・ピークス』によって、リンチの名が広く知られるようになるのは九〇年代を迎えてのことだった。そこで『ツイン・ピークス』が『ブルーベルベット』の集大成のような作品だと知らされるのである。
それならば、その先駆としての『ブルーベルベット』とはどのような映画なのか、ストーリーをたどってみる。
タイトル・クレジットのオープニングの背景となるのは紛れもないブルーベルベットのカーテンで、その奥にこれから始まる物語が隠されていることを想像させる。そのカーテンを開いたかのような景色が冒頭のシーンで、鮮やかな青い空、白いフェンス、赤いバラが映し出される。カーテンと見合った過剰なまでの原色で、それは絵葉書の中にある書割めいた景色のようだが、それこそはアメリカの五〇年代のシミュレーション的風景に他ならない。そしてボビー・ヴィントンなどによるその時代の名曲、かつてのよきアメリカを彷彿させる曲とされる「ブルーベルベット」が流れ出す。
この歌に続いて、白いフェンスと黄色のチューリップが映り、郊外の家並みの中を消防車が走り、子供たちが横断歩道を渡っていく。白いフェンスの内側は豊かな緑で囲まれ、その庭で、年配の夫が芝生に水をやり、妻はリビングでテレビのサスペンスドラマを見ている。そのテレビのかたちとドラマは、時代が五〇年代であることを告げ、これらの風景がテレビや雑誌にあふれていたアメリカの五〇年代の郊外のステレオタイプ的生活様式、安全で平和な郊外生活を示唆しているのだろう。
ところが水まきのホースが木にからんでしまったために水の調節がうまくいかなくなり、それを何とかしようとしていたところで、彼は発作が起き、芝生の上に倒れてしまう。そのホースから吹き出す水と犬が戯れ、その向こうから幼児がよちよちと歩いてくる。
これらの短い冒頭のシーンによって、表層の平和な世界が一瞬のうちに反転し、たちまち不安な世界へと誘われていくような予感が漂う。そしてカメラは緑の芝生にもぐりこみ、不気味なまでに蠢く蟻の群れを映し出し、これから展開される『ブルーベルベット』の世界の不吉な行方を暗示しているといえよう。
実際に倒れた男の息子で、父が倒れたことで大学から戻ってきたジェフリー(カイル・マクラクラン)は見舞った病院からの帰り道に、野原で切り落とされた人間の片耳を見つけた。黄色のチューリップと切られた耳から、ゴッホのひまわりの絵と耳のことがすぐに浮かんでくる。彼は蟻が群がっていた耳を警察に届けるが、その事件の捜査は秘密裡に行われているようで、担当の刑事も口を閉ざすばかりだった。その刑事の娘サンディ(ローラ・ダーン)は地元の高校の後輩で、ジェフリーに近所に住むクラブ歌手ドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)が疑われていることを漏らす。そこでジェフリーは手がかりをつかもうとして、ドロシーのアパートに忍びこみ、クローゼットの中に隠れ、彼女の行動を監視する。
それはブルーベルベットのカーテンの裏側を除くような行為であり、また彼女はクラブで「ブルーベルベット」を歌い、歌と同様にブルーベルベットの服を着てもいるし、ドロシーこそがこの映画の表象にして、偶像であることは間違いない。そしてクローゼットの中から目撃したのは、ドロシーの裸形の姿、それに彼女をサディスティックに責めたてるドラッグ中毒のフランク(デニス・ホッパー)の倒錯的なセックスの世界だった。彼女の裸体と倒錯的セックスとは、ブルーベルベットに隠されていたものに他ならない。
つまりブルーベルベットのカーテンの表側には、昼の青い空の下にある原色の花々と緑に包まれた平和な郊外の日常生活が広がり、逆に裏側では切られた耳に象徴される犯罪と暴力、夜の闇の中での性的倒錯と官能性のざわめきが聞こえてくることになる。それは郊外における平和な日常と犯罪や暴力の混住を意味している。
かくしてジェフリーはそれらの表と裏側を往還する存在として、フランクとその仲間たちとも関わるようになり、悪夢のような世界へと引きずりこまれていく。まさしく『ブルーベルベット』は五〇年代におけるアメリカの郊外の起源を追跡、再現しながら、ステレオタイプ的現実と異なるもうひとつの郊外伝説があったことを提出しているように思われた。
そしてさらにこの映画における主人公ジェフリーの立場を考えるのであれば、彼はブルーベルベットのカーテンの裏側で起きている事件に巻きこまれていく当事者である。だが一方では郊外における見者ならぬ探偵として、犯罪の痕跡をたどりながら、しかもそれはストーカーと覗く人を兼ね、ブルーベルベットの表象としてのドロシーと一体化しようとする。「ブルーベルベット」の歌詞の最後のところを私訳してみる。
ブルーベルベットよ それでもいつだって僕の心には残っている とても大事で暖かい 思い出が 時が経っているのに 僕にはまだブルーベルベットが目に浮かぶ それに涙はつきものだけれど
これにもうひとつの歌であるロイ・オービソンの「イン・ドリームス」が重ねられていく。フランクの仲間のオカマが形態模写で歌う「イン・ドリームス」の奇怪にして素晴らしい臨場感は、すべてが夢の中の出来事だったと告げているかのようだ。それは五〇年代のアメリカばかりでなく、日本の八〇年代の郊外消費社会の風景も同じだと歌っているかのようにも思われた。
こうして風景や物語のみならず、歌を通じても悪夢的な『ブルーベルベット』は、涙は伴わないけれど、いつまでも記憶に残る映画と化してしまったのだ。
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