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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話325 新栄閣、ダルシイ『歓楽の哲婦』、石渡正文堂

前回の成光館に関連する出版を続けて取り上げてみる。『ロシア文学翻訳者列伝』の硨島亘から、未入手だった関東大震災後の大正期の翻訳書三冊の恵贈を受けた。それらはモオパッサン、大澤貞蔵訳『女の戯れ』(新栄閣、大正十三年)、レオンスアルシイ、青柳若雄訳『炎ゆる情熱』(新文社、同十三年)、ゾラ、大島匡助訳『呪はれたる抱擁』(石渡正文堂、同十五年)である。
ロシア文学翻訳者列伝

この三冊に関しては硨島がすでに「震災の余滴」、及び「同余稿」(中野書店『古本倶楽部』連載)で言及しているけれど、これらの出版に関わっている人々の多くが特価本業界と明らかにつながり、そこに関東大震災以前とは異なる出版事情が潜んでいると考えられるので、そのことにふれておきたい。ただここでは主として新栄閣にスポットを当ててみたい。

本連載でも既述してきたように、大正時代は多くの文学者が出版事業に参入し、ヨーロッパ文学や思想の翻訳も隆盛となり、それこそ小出版社が次々に生まれ、ある意味において、小出版社ルネサンスのような趣を呈していたように思われる。それは明治末期に三千店だった書店が一万店を数えるようになり、また大正九年に東京古書組合が設立されたことにも表われているように、流通や販売にも反映され、雑誌と教科書によって立ち上がり、成長してきた日本の出版業界にとって、人文書や社会科学書などの少部数出版物の流通や販売の確立へとも向かうはずだった。しかしそれらの流れも大正十二年の関東大震災によって一挙に切断され、多くの出版社があえなく消えてしまう。

そうした「震災の余滴」を背景に、かつてない譲受出版や海賊出版が行なわれ、そこに特価本業界が多角的に絡んでいたと見なしていい。そのような出版社が新栄閣で、硨島は前述の『女の戯れ』の書影を示し、次のように書いている。

 大正震災後、風のように現れ、いつ知れず消えていった新栄閣。ここで上梓されたダルシイ『歓楽の哲婦』は、当時から現在に至るまで文学史に採り上げられない作品であることは出版社の攻防と相俟って興味深い。(中略)
 新栄閣の発行者木下鉄馬の名も当時の出版業界の関係者の中に見えず、詳細は不明。同社は主に独仏英の文学作品を出版しているが、発売禁止を恐れたのか、(中略)同一の紙型を用い、題名・訳者・装幀を更め、再版している。
 判明しうる同社の出版物は大正13年のみであり、同一作品を除けば八作品。発行所の記載がないこともあるが、発行者はすべて木下鉄馬。

ここに挙げられている大正十三年一月刊行のダルシイの『歓楽の哲婦』は『女の戯れ』の巻末広告に掲載され、榎本秋村訳で、「大胆赤裸々の描写は『ベラミイ』『ナナ』の比にあらざる傑作!」「仏文の直接訳、見よ!官能描写と心理推移の繊細なる筆致を!」とのキャッチコピーが寄せられている。

しかし硨島は私が引用した部分に続いて、「新栄閣出版物一覧」を示し、その八点を挙げている。しかも同年四月刊行のレオンスアルシイ、青柳若雄訳『炎ゆる情熱』、同年九月の売捌所を河野書店とするダルシイ、秋野村夫訳『白熱の愛』は新栄閣の『歓楽の哲婦』と同じで、これらはタイトル、訳者、装丁だけでなく、出版社も変わっての再版だと指摘している。それは『女の戯れ』も同様で、やはり同年九月に大京堂書店から若月貞雄訳『恋を売る女』として出されているという。

どうしてこのような複雑な出版方法がとられているのだろうか。それは発禁処分に対するカモフラージュもあると思うが、『女の戯れ』の奥付に見られる「版権所有、不許複製」の表示に打たれた「出版物合同販売所扱之印」という押印が事実を告げていると思われる。河野書店=成光館や大京堂が特価本業界の出版社であることは本連載で既述してきているし、『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』に石渡正文堂の名前が見えている。ただ新栄閣と木下鉄馬の名前が見つからないが、この業界に属していたと考えて間違いないだろう。

そうして様々な事柄から推理してみると、『歓楽の哲婦』の最初の版元は不明だが、関東大震災絡みで倒産、もしくは廃業に追いやられた。その版権を新栄閣、石渡正文堂、河野書店が「出版物合同販売所」として取得し、出資金額に応じて出版順序が決められ、タイトルや訳名を変え、紙型再版として刊行されていった。したがってこのような操作がほどこされてはいても、海賊出版ではなく、譲受出版だったことになる。なお硨島も指摘しているように、『女の戯れ』は冒頭ページのタイトルの下に「ノートルクール」とあるので、大正十年の天佑社版、『モウパッサン全集』第八巻所収の中村星湖訳『我等の心』と見なしていい。

さて最後に残ったのは石渡正文堂のゾラの大島匡助訳『呪はれたる抱擁』だが、これも硨島によれば、大正十年の金星堂の関口鎮雄訳『怨霊』で、大島は関口のペンネームとされる。本連載193で記しておいたように、関口は「ルーゴン=マッカール叢書」の『芽の出る頃』『ジェルミナール』)の訳者でもある。
ジェルミナール (小田光雄訳)

ただややこしいことに、これも本連載196で述べておいたが、後に『テレーズ・ラカン』と訳される『呪はれたる抱擁』は、同タイトルで井上勇によって聚英閣から出され、これも大正十五年に第百書房から改題され、『罪の渦』として刊行されている。こちらも譲受出版であり、その一端を示しておいたけれど、翻訳出版における関東大震災前と後はかなり入り組んでいて、出版社の倒産、版権や紙型の移動、特価本業界との関係など、一筋縄ではいかない構図となっていることだけはおわかり頂けるだろう。

テレーズ・ラカン

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