前回の新栄閣と石渡正文堂の奥付を見ていると、印刷者が石野観山、印刷所が福寿印刷株式会社と共通していることに気づく。本連載194で既述しておいたように、石野と印刷所は成光館の出版物の多くを担当していたことから、特価本業界向けの印刷を得意としていたのではないだろうか。
それに加え、『ロシア文学翻訳者列伝』の硨島亘が「震災の余滴」と「同余稿」(『古本倶楽部』連載、中野書店)において、石野の他に新栄閣の印刷に関わっているのが、京華社と猪木卓二、行政学会印刷所と福山福太郎、三芳屋書店印刷部と古屋硏之助だと指摘している。福山については本連載15などでもすでに取り上げてきたが、硨島はこれらの人物とは別に、「同余稿」で関東大震災後の大正十二年十二月に中戸川吉二が水守亀之助や牧野信一の協力を得て創刊した『随筆』に言及し、その発行所随筆社が同十三年より水守に経営権が移り、人文社(後に人文会出版部)となり、『明治大正随筆集』『泰西随筆集』などを刊行したと述べている。
[f:id:OdaMitsuo:20160216165545j:image:h110]『蒼ざめたる馬』
この随筆社なる出版社名を見て、本連載90でふれた梅原北明の『殺人会社』(アカネ書房)の発行所がそうであり、またロープシンの青野季吉訳『蒼ざめたる馬』などもここから刊行されていたことを思い出した。そればかりでなく、昭和の円本時代の『続随筆文学選集』もこの随筆社と関係があるのではないかと考え、奥付を見ると、そこには発行者として猪木卓二、印刷者として松岡虎王磨、印刷所として京華社が掲載されていた。発行所は続随筆文学選集刊行会、発売所は麹町区飯田町の資文堂書店で、猪木と住所が同じであるから、実質的に資文堂は京華社ということになる。松岡、京華社、資文堂については、これも本連載287の南天堂絡みでふれている。
私の所持する『続随筆文学選集』は昭和三年に編輯者を楠瀬恂とし、「非売品」として出されているので、予約出版の円本に属すると考えていい。この一冊には『見世物雑誌』『耽奇漫録』など四編が収録された近世随筆集だが、箱の表に星印が二つあり、本扉には『続随筆文学選集』第二とあるので、その第二巻を意味していると思われた。だが書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)を参照しても、『随筆文学選集』は昭和二年に書斎社から正続十八巻とあるだけなので、同じものかどうか、判断を保留していたのである。また硨島が挙げている二つの選集はリストアップされていない。
ちなみに『日本近代文学大事典』の中戸山吉二や水守亀之助の立項にも目を通したが、『随筆』や人文会出版部への言及はあっても、選集類の出版に関してはふれられていない。しかし念のために『随筆』の立項にもふれると、『随筆』はふたつ立項され、大正十二年から翌年にかけての中戸川の『随筆』(其発行所、随筆社)、大正十五年から昭和二年かけての水守の『随筆』(人文会出版部)がそれぞれ掲載されていて、大正十三年四月号から前者の経営は牛込区矢来町六の新設の随筆社に移ったとあった。
前回の新栄閣と発行者木下鉄馬の住所は矢来町八だったから、新設の随筆社と新栄閣は何らかの関係があったことは確実で、楠瀬も新設の随筆社の関係者だったと思われる。住所のみならず、随筆社も新栄閣と同様に、譲受出版を担っていたはずで、その一例として『蒼ざめたる馬』を挙げることができよう。これは大正八年に鷲尾浩の冬夏社から刊行されている。鷲尾と冬夏社に関しては、拙稿「春秋社と金子ふみ子の『何が私をかうさせたか』」「ハヴロック・エリスと『性の心理』」(いずれも『古本探究』所収)を参照されたい。
さてこれまで列挙してきた様々な人名から、ひとつの出版チャートを描けるように思える。大正時代に多くの文学者たちが出版へ参入し、多くの小出版社が生まれ、ヨーロッパ文学、思想、宗教書などの多種多様な出版活動を営み、大正出版ルネサンスのような状況を迎えていた。そこに起きたのが未曾有の関東大震災で、私も以前に「講談社と『大正大震災大火災』」(『古雑誌探究』所収)を書いている。そして東京の多くの出版社に壊滅的打撃を与えたのである。これが簡略な関東大震災前後における出版社状況で、この事実は震災前の活発な出版活動が震災後には停止してしまい、多くの出版社と同様に出版物も失われてしまったことになる。
そこで生じたのは版元を失った書籍の問題であり、著作権や紙型の権利などが浮上し、それが震災後に盛んになった譲受出版や海賊出版へと結びついていったと思われる。それらに参画したのは、特価本出版社を中心とした印刷屋も含んだ人々、小出版社の経営者や編集者であり、それらを布石として、昭和初期の円本やポルノグラフィ出版時代がもたらされていく。
福寿印刷の福野観山が成光館などの譲受出版の仕事を引き受けていたように、新栄閣のところで上げた福山福太郎は梅原北明とジョイントし、文芸資料研究会の「変態十二史」シリーズ、京華堂の猪木卓二は元南天堂の松岡虎王磨と随筆社が絡んだと見なしていい『随筆文学選集』などを手がけていく。もちろん明らかにされていない事柄も多く潜んでいるし、実態も詳細につかめないけれど、これらの仕事を通じ、特価本業界と多くの著者と訳者や編集者がつながり、大正末期以後の特価本出版社の成長と隆盛を支えていったと考える他はない。
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