私は一九九七年に上梓した『〈郊外〉の誕生と死』(青弓社)の最終章において、郊外ショッピングセンターと絡め、ジョージ・A・ロメロのホラー映画『ゾンビ』をすでに論じている。しかし当時と現在では郊外ショッピングセンターをめぐる問題が、まったく異なる状況に至ったといっても過言ではない。拙著において、二一世紀初頭には本格的な郊外ショッピングセンターの時代が到来すると予測しておいたように、それが本当に実現してしまったからだ。
しかもそれは拙著の刊行の翌年に出された日本構造協議に基づくアメリカの、所謂日本の消費者のための「要望書」に端を発している。この「要望書」の命ずるままに、二〇〇〇年になって、実質的に出店の自由を規制していた大規模小売店舗法(大店法)が廃止され、大規模小売店舗立地法が施行となり、日本の商店街はさらなる衰退へと向かった。
その一方で、全国各地における大型ショッピングセンターの開発が始まり、ショッピングセンターバブルと呼んでいいほどの開発ラッシュと、店舗の巨大化が進められた。当初は企業の工場跡地などに出店していたが、さらに広大な用地を確保できる市街化調整区域の農地などに建てられるようになり、店舗面積だけで五万平方メートルを超えるショッピングセンターが続々と出現し、それは年を追う毎に巨大化し、八万から九万平方メートルにも及んでいった。
この大店法から大店立地法に至るフローチャート、具体的なショッピングセンターの開業とその場所については、これも拙著『出版業界の危機と社会構造』(論創社、〇七年)に収録しておいたので、詳細はそちらを参照されたい。なお大型店と地域の問題に関しては、矢作弘『大型店とまちづくり』(岩波新書、〇五年)、ショッピングセンターについては『日本ショッピングセンターハンドブック』(商業界、〇八年)、その中心を占めるイオンのことは『イオンスタディ』(同前、〇九年)などが、ゼロ年代のショッピングセンターをめぐる問題と位相を告げていて生々しい。
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それらに示された事実やデータは二一世紀に入って、二〇世紀まではショッピングセンターに無縁だった多くの人々がそれを身近に体験し、その消費者となっていったことを示している。それは私の周辺でも例外ではなく、数年前に車で二十分ほどのところに巨大な郊外ショッピングセンターが開業した。元は主として茶畑だった場所である。広大な駐車場を備え、さまざまな物販やサービス業種を組み合わせ、アミューズメントやアメニティも取り込んだ総合商業施設であり、二一世紀のパサージュと呼んでいいのかもしれない。ちなみにベンヤミンの『パサージュ論』の英訳版は“The Arcades Project ”となっている。
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だがそれはさておき、二一世紀の日本において、郊外ショッピングセンターの増殖的出現を通じ、それが身近な存在にして、空間となったことは紛れもない事実といえよう。そして〇七年の数字を示すならば、ショッピングセンター総数は二千八百を超え、総面積は全小売業の30%、総売上高はその20%を占める二十七兆円に及んでいる。
しかしそのかたわらで、日本の総人口は〇七年の一億二千八百万人をピークとして減少を続け、二〇五〇年には一億人を割るとされる。すなわちそれは日本の二〇世紀が人口増加であったことに対し、二一世紀は人口減少であり、また高齢化と少子化の進行を伴っていることを意味している。
一九八〇年代からの郊外の人口の膨張、ロードサイドビジネスの隆盛、郊外消費社会の成立は、あくまでそのような日本の二〇世紀的動向によって支えられていたし、それとパラレルに考えれば、郊外もまた膨張を停止し、縮小へと向かう段階へと入ってきている。そこに郊外ショッピングセンターだけが突出し、過剰なまでに開業したことになる。それゆえに、すべてにおいて過剰消費社会と化してしまった二一世紀において、郊外ショッピングセンターはどのような回路をたどろうとしているのだろうか。
さて前置きが長くなってしまったが、これらのことに思いをめぐらせていると、いつも脳裡に浮かんでくるのが『ゾンビ』であり、この映画こそはアメリカの郊外消費社会の行方を幻視した作品のように思えてくるのである。また現代のホラーの起源が郊外にあることをまざまざと表出させるのだ。
ゾンビとは宇宙からの怪光線によってよみがえった死者たちであり、彼らは生者の血と肉を求めて彷徨い、襲うのだ。そしてゾンビに襲われた生者自らもゾンビ化し、都市はゾンビによって壊滅してしまう。そのためにわずかに生き残ったテレビ局員やコマンド隊員はヘリコプターで郊外へと脱出する。そして郊外ショッピングセンターにたてこもり、ゾンビたちとの闘いが展開されていく。それゆえにこの映画のほとんどがショッピングセンターを舞台としている。
広大な無人の駐車場が映し出される。都市から脱出した彼らは何かに引き寄せられるようにして、ショッピングセンターの屋上へと漂着する。それからやはり無人のショッピングセンターの内部に入りこむ。切られていた照明がつけられる。すると夥しい商品の群れが出現する。それは人間が不在の空間で、交換価値も使用価値も失い、空虚な記号のように浮遊している商品の風景だ。衣服、スポーツ用品、食料品、酒、雑貨、銃器……。あらゆる商品があり、サービス業も揃っている。銀行、レストラン、ゲームセンター、美容院……
人間がすべて死に絶え、巨大な郊外のショッピングセンターという建物と商品だけがとり残されて出現する風景のようだ。消費者のいない消費社会であり、生き残った彼らこそが消費社会の孤独な王となる。しかし交換価値の回復は不可能で、使用価値だけを見出すしかない。彼らは陳列された食料を自由に食べ、酒を飲み、銃器で武装し、レストランで食事し、美容院で髪を整える。いわば消費者のユートピアが実現するのである。それがゾンビとの闘いに備える束の間の休息だとしても。彼らのひとりがいう。「ここはすばらしい。何でも揃っている。別天地だ」と。
しかしここにもゾンビは押し寄せてくる。ぎこちなく徘徊する無数のゾンビたちは画一的な表情と動きで、広大な駐車場にまず集結し、商品を求めて彷徨う消費者のようにショッピングセンターの内部へと入ってくる。かくして無人だったショッピングセンターは、商品の間を動き回るゾンビたちの姿で埋まってしまう。蝟集してくるゾンビと自らをさして、コマンド隊員が呟く。「理由もなくここに来てしまう」と。
画一的な事情と動きでぎこちなく徘徊し、増殖する無数のゾンビたちとは、紛れもなく郊外消費社会における消費者のメタファーに他ならないだろう。ゾンビたちの教会とは、商品のあふれる郊外ショッピングセンターであり、商品が神に相当する。そして倒されても倒されても、次々と出現してくるゾンビたちとは、消費社会の欲望の自己運動のようにも思えてくる。
この『ゾンビ』というホラー映画には、ショッピングセンターに象徴される郊外の消費社会の悪夢のようなものが確実に存在する。村上春樹は『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)において、アメリカにおけるゴーストタウンと化したショッピングセンターの「寒々しい光景」を報告し、さらに傍点を付して「寒々しいという以上の何か」がそこにあるとまで記している。
実際に日本においても、幹線道路をしばらく走ってみれば、閉店したまま放置されたロードサイドビジネスの建物を多く目撃することになるし、九〇年代に開発されたショッピングセンターでも同様な状況に追いやられている。かつて全盛を誇った商店街がほぼ消滅してしまったように、やがて哀しき郊外消費社会の時代も迫りつつあるように思える。