D・リンチの『ブルーベルベット』やロメロの『ゾンビ』、エドワード・ホッパーやエリック・フィッシュルのそれぞれの作品など、アメリカの映画や絵画に続けてふれてきたが、一九九〇年代になって、アメリカの郊外を、映画を主として俯瞰しようとする一冊が出現した。それは大場正明の『サバービアの憂鬱』で、「アメリカン・ファミリーの光と影」というサブタイトルが付されていた。
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そこでは郊外と映画とファミリーがテーマであり、当然のことながら『ブルーベルベット』や『ゾンビ』も取り上げられ、絵画に関してはホッパーは登場していないにしても、フィッシュルの「バッド・ボーイ」にも言及がなされ、目配りのよいアメリカ郊外についての文化的配置図を形成していた。
「バッド・ボーイ」
しかし当時読み出してから、ひとつの違和感を覚えたことも事実であるので、そのことから始めてみよう。大場はその「序章」の冒頭で、次のように述べていた。
本書のタイトルになっている、サバービア(suburbia)という言葉は、アメリカの小説や映画などではよく目にするが、日本ではまだそれほど一般的な言葉ではないと思う。
英語の辞書でこの言葉を引いてみると、「(都市)の郊外族、あるいは、郊外風の生活様式[習慣、風俗]」といった意味がならんでいる。この意味をもうすこし明確にするために、もうひとつ、サバービアと似たサバーブ(suburb)という言葉をとりあげてみよう。この言葉には、「(都市の)近郊、郊外」という意味があり、サバーブス(the suburbs)となると「(都市の)郊外[近郊]住宅地区」という意味になる。どちらも、都市から離れた、静かで広々とした郊外の住宅地やその住民を意味する言葉だ(中略)。サバーブという単語に、「地域、社会」を意味する“ia” という接尾辞が加わった“サバービア”の場合は、郊外住宅地やその住人だけを意味するのではなく、住宅地や住人の生活様式や風俗、文化といった要素も含まれているのだ。
アメリカの郊外と住宅、その住宅地や生活様式を包括する意味でのサバービア、及びそれに類するサバーブ、サバーブスの説明としては正当であるにしても、その後で「日本でいえば、新興住宅地という言葉が、それに近いといえる」との認識には異議を申し立てたくなる。
確かに大場がいうように、日本においてサバービアという言葉は普及していなかったが、郊外は一九七〇年代にすでに誕生して姿を現わし始め、八〇年代におけるロードサイドビジネスの時代を迎え、あまりにもリアルに、郊外消費社会を出現させたのである。拙著『〈郊外〉の誕生と死』の中で実証しておいたように、ロードサイドビジネスのある風景の増殖化は、八〇年代になって全国的なものになり、郊外の風景を画一化、均一化していったといえる。
それは幹線道路沿いの田や畑だった場所に、各種の物販やサービス業の駐車場を備えた郊外店が建てられ、それらで埋まっていく風景の変容を意味していた。サバービアという言葉は使われていなかったが、すべての物販やサービス業において、所謂郊外店ラッシュの時代が押し寄せていたのである。
しかし大都市の内側に住んでいる人々は、そのような全国各地で起きていた郊外店の隆盛に伴う風景の変容、それはアメリカ的風景の出現に他ならなかったのだが、そのことにまだ意識的ではなかった。おそらく大場もそのような一人であり、その眼差しはひたすらアメリカに向けられ、アメリカにおける郊外の生活のイメージを浮かび上がらせようとして、この一冊が書き始められたと考えられる。
大場がアメリカの郊外の世界に関心を持つきっかけになったのはスピルバーグの映画で、多くはUFOや宇宙人に眼を奪われがちだが、その舞台や背景が郊外の住宅地であることに注目するようになったからだ。例えば、それらは『E.T.』におけるE.T.が最初に目撃する人間世界としての郊外住宅地の無数の光のパノラマ、『未知との遭遇』の主人公たちが暮らす郊外住宅地、及びそれが停電に見舞われ、次々に闇に呑みこまれていくシーンなどで、スピルバーグは郊外の景観と世界を意識的に映画に表出させた最初の監督ではないかと指摘している。
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そういえば、監督ではなく、製作や脚本を担当した『ポルターガイスト』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの舞台も郊外住宅地であったし、私も本連載32で『激突!』における運転手の顔が見えない巨大タンクローリーこそは、郊外の得体のしれない不気味さと恐怖のメタファーではないかと既述したばかりだ。
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それはともかく、大場は『E.T.』と『未知との遭遇』に描かれた郊外の家が、スピルバーグ自らが育った家であるとのコメントを引き、スピルバーグが郊外の子供だったこと、そしてそれらに投影されている郊外の「ふくみ」の部分に注目し、第十章を「郊外住宅地の夜空に飛来するUFO―スティーブン・スピルバーグのトラウマ」に当てている。
そこで大場はまずスピルバーグが一九四七年の生まれで、アリゾナ州フェニックスの郊外のスコッツデールで成長したことを確認している。それを補足すれば、ハイスクールを卒業した頃、両親が離婚し、母親とカリフォルニア州ベイエリアに移り、カリフォルニア大学に入り、本格的に映画を作り始めている。そしてTV映画『激突!』(七三年)が劇場公開され、次に『ジョーズ』(七四年)が大ヒットし、『未知との遭遇』(七七年)、『E.T.』(八二年)と続き、ハリウッド新世代のトップ監督となっていたのである。
大場は初期作品の『激突!』や『ジョーズ』の背景にも、郊外の倦怠に覆われた世界の揺曳を見る。『激突!』の主人公の平凡なビジネスマンのことを、スピルバーグが「ミスター・サバービア」=「現代的な郊外生活に埋没した典型的な中流の下のほうにいるアメリカ人」と呼んでいることから、『激突!』という映画は、モータリゼーションも深く絡んだ「郊外の生活に対して激しい揺さぶりをかけようとする作品」と位置づけている。また不気味なまでに追いかけてくるタンクローリーが、平穏な郊外の日常生活の中で、主人公の刺激を求める潜在的願望が生み出す巨大な妄想であることも。
もはや『ジョーズ』について説明するまでもないだろう。『ジョーズ』における巨大なサメも、『激突!』の巨大なタンクローリーに相当するもので、しかもタンクローリーやサメとの闘いに勝利を収めた後、いずれの主人公もまた同じ日常生活へと回帰していくのである。
『激突!』から『E.T.』に至るまで共通しているのは、外部からやってくる何ものかによって、日常世界が揺さぶられるという構図である。それはスピルバーグが成長した五〇年代がアメリカSFの黄金時代だったことの反映のようにも思われる。
さて最初に『サバービアの憂鬱』における日本の郊外への同時代的視点の欠如に対し、不満を述べておいたが、ここまでくると、それが欠けていたからこそ、この一冊が中途半端な郊外に関する日米比較論に陥ることなく、アメリカの「サバービア」と映画の関係を集中して論じることになり、それはそれでひとつの成果であるようにも思われた。
ところが大場は「あとがき」に至って、本文では意識してふれなかったが、「日本の現在、あるいは、近い将来の状況」を念頭に置いて書いたし、日本の「郊外化も着実に進行している」ととってつけたように述べている。その理由として、「これは、ぼくが意識するようになったためかもしれないが、特にこの数年のあいだに、雑誌のグラビアなどで、郊外住宅地といえるような光景を目にする機会が増えたように思う」からで、その光景は「幹線道路沿いに、ファミリー・レストランやコンビニ、ファーストフードの店などが軒を連ね、その向こう側に一面の住宅が広がっている」といったものである。それは大場がこの『サバービアの憂鬱』で書いている「数年の間に、雑誌のグラビアなどで」、日本の郊外を「意識するようになったため」で、私の前言は取り消す必要がないと判断している。
ただそれらのことよりも、『サバービアの憂鬱』はアメリカ映画を取り上げ、日本においてアメリカの郊外の「憂鬱」に焦点を当てて論じた先駆的一冊であり、類書のないアメリカ郊外映画史となっている。拙文ではスピルバーグにしかふれられなかったことが残念である。これが絶版のままであることが惜しまれるので、ちくま文庫などでの復刊が望まれる。
なおこの一文を書いてから検索すると、『サバービアの憂鬱』の全文が大場のホームページに掲載されていることを知った。興味ある読者はぜひアクセスされたい。
◆過去の「混住社会論」の記事 |