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古本夜話338 中島謙吉、光大社、三宅克己『思ひ出つるまゝ』

前回の「写真大講座」第十二巻に、福原信三や森一兵と同じく「芸術写真総論」を寄せているのは中島謙吉である。しかしその文体というよりも語り口には、写真家としての福原や森たちとは異なり、いかにも概論といったニュアンスがつきまとっている。それは中島が写真家というよりも、編集者であることに起因しているのではないだろうか。

飯沢耕太郎『「芸術写真」とその時代』筑摩書房)の中に、中島の名前が散見できるので、それをトレースしてみる。本連載336で大正十年代において創刊された写真雑誌をリストアップしておいたが、そのうちのひとつに『芸術写真研究』がある。これはアルスから大正十一年に創刊され、翌年に休刊の後、復刊し、十五年には『カメラ』と合併し、昭和四年になってもう一度光大社から復刊されるという経緯をたどっている。

中島は大正十年代から昭和戦前にかけて、一貫して写真雑誌の編集に携わり、その初期の仕事が『芸術写真研究』とも見なせるし、その編集とパラレルに、本連載でも何度もふれてきた田口掬汀の日本美術学院から大正十一年に『写真芸術の表現』を刊行している。関東大震災後に中島は『カメラ』に移り、総合的な写真芸術論として、アマチュア写真家たちに大きな影響を与えた「写真芸術の講話」の連載も始めた。そして大正十五年に両誌が合併してからは「理論的指導書」として応募写真の選者ともなり、多くの個性的な写真家たちを見出し、育てていくことになる。おそらくそこには本連載でもふれてきた大正時代のキーワードのひとつと思われる「民衆芸術」といった視点も含まれ、福原信三たちの『写真芸術』と一線を画す、もしくは折衷をめざす『カメラ』の編集方針が確立されていったのではないだろうか。それが同じくアルスを版元としていた『芸術写真研究』と『カメラ』の合併の意味であったと考えられる。

それらの延長線上に集大成として、「写真大講座」は出現したのであり、その執筆者も含めた企画編集の中心人物が、高桑勝雄と中島だったと断言していいだろう。飯沢は次のように書いている。

 『アルス写真大講座』は『カメラ』『芸術写真研究』等のアマチュア写真雑誌や、各種の写真技術書の刊行によって「芸術写真」の展開に大きな役割を果たしたこの出版社の活動の総決算的な意味を持つものであり、三宅克己、中島謙吉、福原信三、淵上白陽、野島熙正(康三)、平尾硑爾、米谷紅浪、高山正隆、本田仙花、西亀久二といった、代表的な写真家、写真理論家から成る執筆者の顔ぶれを見ても、当時の最高の理論的水準を示していると思われるのである。

そして中島もまたアルスから、『引伸写真術』や『芸術写真の知識』などを刊行し、後者は先述の「写真芸術の講話」のもとにした著作だと推測される。だが飯沢の同書にその後の中島の動向はたどられていない。

さてこのような大正時代から昭和初期にかけての写真をめぐる出版状況の中に身を置いてきた中島が、自ら出版社を興していったのは必然的な過程であったのかもしれない。その出版社とは昭和四年になって『芸術写真研究』を復刊した光大社であった。

実はこれまで言及してこなかったけれど、三宅克己が昭和十三年に刊行した自伝『思ひ出つるまゝ』を持っている。所持しているにもかかわらず、ふれてこなかったのは、この自伝が明治末期までの水彩画家としての回想に終始し、写真のことはまったく書かれていなかったからだ。それでも確認するために取り出してみると、その出版社は光大社で、発行者が中島謙吉であることにあらためて気づいた。また「跋」を書いているのも中島で、それは十ページに及んでいる。

中島は、三宅を最初に訪れたのは十五、六年前で、ずっと知遇を受けているが、三宅の家に出入りしている仲間うちでは最も新参者に属すると、その「跋」を始めている。そして三宅を白馬会によった新しい美術運動の先端者、日本の印象派創立者の一人と捉え、欧米留学を経て、水彩画家、民衆画家として大きな影響を与えたと述べ、「はじめて武蔵野の雑木林、農家、麦畑、小川、雲などの田園風景を自由に題材とされ、玆にはじめて純粋な自然を題材とする新生面を拓かれた」と記している。これは国木田独歩とパラレルにある「風景の発見」ということになるだろう。

ここから風景写真という言葉がただちに想起され、中島と三宅の関係からすれば、言及があってしかるべきなのに、なぜかまったくふれられていない。それでいて『思ひ出つるまゝ』に挿入された珍しい写真などは自らの編集判断によるとの断わりも入り、写真雑誌の編集者の片鱗を覗かせている。

巻末の出版広告を見ると、『石井鶴三挿絵集』『石井鶴三素描集』、同じく石井の随筆集『凹凸のおばけ』が掲載され、三宅の著書と合わせれば、光大社は美術関係の出版に従事しているような印象を与える。当然のことながら、光大社は『芸術写真研究』を刊行するために設立されたことから、そのような写真を連想させる社名がつけられたと思われる。だが昭和十年代に入ると、中島と光大社は写真の世界や出版から退き、異なる道を歩み出していたことを、中島の「跋」における語り口とこれらの出版物は物語っているのかもしれない。
『石井鶴三挿絵集』

なお『石井鶴三挿絵集』は新聞連載の中里介山『大菩薩峠』挿絵全四百四十二図を網羅したもので、この出版をめぐって中里から訴えられるという事件が起きているが、これはまた別の物語となろう。
大菩薩峠(ちくま文庫

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