たまたま新刊のフィリップ・K・ディック『市(まち)に虎声(こせい)あらん』(阿部重夫訳、平凡社)を読み、ひとつのミッシングリングがつかめたように思われたので、これから数回書いておきたい。それはこの小説のみならず、そこに付された阿部の「ディックの『眼球譚』―訳者解説に代えて」にも大きな示唆を受けたからでもある。
しかも何と阿部は定期購読している『FACTA』の発行人兼編集主幹で、それを奥付の「訳者略歴」から知らされた。そして取次ルートの雑誌に見られない同誌の充実感と面白さは、このようなディックの翻訳に象徴される阿部のSF的想像力にも起因しているのではないかと推測した次第だ。
それらはともかく、私はディックのよき読者ではないし、SFに通じてもいないけれど、一九五二年から翌年にかけて、ディックが二十五歳の時に書かれたこの「事実上の長篇処女作」が、その後の彼のSFの揺籃の地だったという読後感を覚える。例えば、主人公のハドリーが今度戦争になったら、日本人がアメリカに原爆を落とし、占領したとしても、こちらが発明してすでに落とした以上、しょうがないじゃないかと語るシーンが出てくる。これこそ第二次世界大戦で枢軸国が勝利し、アメリカ西部を日本、東部をドイツが占領したという前提から始まる、六二年発表の『高い城の男』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫)の構想へと結びついていったのだろう。
このような後の作品と『市に虎声あらん』におけるアナロジーは他にも見出せるであろうが、私はここにハルバースタムが『ザ・フィフティーズ』の中で描いたアメリカの五〇年代とは異なる、もうひとつの風景と物語の表出を必然的に見てしまう。それは出現しつつある郊外と旧来の商店街のせめぎ合いの兆候で、原タイトルのVoices from the street とはそうした「街路の声」とも判断できるように思われた。だが細部にわたって錯綜するこの物語の全体像を短文で紹介することは不可能なので、ここでは私のそのような視点から「街路の声」を抽出してみる。
その気配はエピグラフに引用されているライト・ミルズの『ホワイト・カラー』(杉政孝訳、東京創元社)の「知識階級」の章の一節にも表われている。ミルズの『ホワイト・カラー』は、H・ホワイト『組織の中の人間』(岡部他訳、同前)や本連載37のリースマンの『孤独な群衆』と並んで、いずれも五〇年代に出されたアメリカ社会学の古典と称すべき一冊であり、同時代におけるアメリカ人とその社会の変貌をテーマとしている。これらの社会学の古典の出現とアメリカの消費社会化の関係については拙稿「図書館長とアメリカ社会学」(『図書館逍遥』所収)を参照されたい。
それらにおいて、ホワイトは社会の組織の中に埋没し、画一化されていく「オーガニゼーション・マン」、リースマンは伝統や内部ではなく「他人指向型」に焦点を当てているが、ミルズの分析は次のようなものである。
十九世紀のアメリカ人は農民や実業家が主で、彼らは自分の生活を営むことを通じて成功者になれた。ところが二十世紀における新たな中流階級ともいうべきホワイト・カラーはサラリーマンとして雇われている存在で、独立や成功の可能性は少なくなり、それに伴い、アメリカ社会も変化せざるをえない状況にある。このような視点から、ミルズは旧中流階級を支えていた小企業や農業衰退とは逆に、新中流階級としてのホワイト・カラーの世界と生活様式、政治的意味や苦悩などを総合的に描いている。
ここでのホワイト・カラーは官僚から物販やサービス業の店員に至るまでの「つねに個人が、会社か、政府か、軍隊か、誰かにやとわれている」サラリーマンと解釈してかまわないのだろう。そして彼らの多くは大都市の郊外に住んでいる。またハルバースタムが『ザ・フィフティーズ』で、ミルズをこの時代の重要な知識人の一人だが、エキセントリックな新左翼的な社会学者として、かなり長いポートレートを提出していることも付け加えておこう。ただ残念なことに、ディックへの言及はない。
ディックがその『ホワイト・カラー』からエピグラフとして引用しているのは「知識階級」の章の一節で、自由な古典的知識人の敗北を伝えるものだと解釈していい。それは象徴的な一節でもあり、同様に引用しておくべきだろう。
かれらは自己の内部の問題と戦うよりも、外部の敵がどこにいるのかを見つける方が困難であることを悟っている。かれらの敗北は一見個人的なものではないように見えるが、実はそれは、彼らの個人的な悲劇への道なのであり、かれらは自己の内部の虚偽に裏切られるのである。
いうまでもなく、「かれら」とは「知識階級」「知識人たち」をさしている。こちらに引き寄せて解釈すれば、生産社会から消費社会への移行という産業構造の中において、かつての「知識階級」「知識人たち」はもはや存在意味を失ってしまっているのに、それに気がつかず、マスメディアなどで消費される対象と化していることを意味しているようにも思われる。それはどのようにディックの物語に反映されているのだろうか。
まず『市に虎声あらん』の物語設定は一九五二年六月二十五日に設定され、そこから始まっている。その五二年のアメリカ状況とは、マッカーシーの赤狩りに続く朝鮮戦争の始まりでもあった。ある歴史家は五〇年代を三期に分け、第一期の五〇年―五二年を「恐れと疑いの時代」とよんでいるという。
その日におけるダウンタウンの商店街にある電器販売店「モダンTV」の店主ファーガソンとその店員で、この物語の主人公ハドリーの店への、それぞれの車と徒歩での通勤シーンが描かれ、それらは「商店と街路」の風景をも含んでいる。そこにはローン会社、紳士服店、カフェ、健康食品店、八百屋、宝飾店、文具店、旅行代理店、ドラッグストアなどがあり、ファーガソンは教会と国を信じ、ラジオの修理業から初めて、テレビなどの電器販売店を構えるに至った人物とされる。ミルズの『ホワイト・カラー』にならえば、彼は十九世紀的な独立した自営企業家といえるし、商店街を形成する各店や会社にしても、ファーガソンと同様の軌跡をたどっているはずだ。
しかしそのような商店街にも異物的な郊外の影響が忍び寄りつつある。本連載で産業構造において、アメリカの五〇年代と日本の八〇年代がまったく重なるものであり、日本の八〇年代がアメリカの五〇年代の再現に他ならないことを既述しておいた。したがって日本の八〇年代に起きていた事柄は、同様にアメリカの五〇年代に生じていたことになる。その広範にして最大の社会的現象は郊外消費社会の誕生と隆盛、それに伴う商店街の衰退と没落だといっていい。
したがって当然のことながら、ファーガソンが「モダンTV」を構えているシダー・グローヴス商店街にも押し寄せていると考えるべきだろう。彼の目にはライヴァルの郊外の家電量販店「オニール電器店」が眩いばかりの「理想郷(エリシウム)」に映るし、また郊外のロードサイドは「聖なる場所」のようだし、その買収を「神がかりの (スピリチュアル) 祭儀」のように夢見ている。
ベイショア・ハイウエイ沿いの道端、シダー・グローヴスの南に建つ、あの豪勢なケバケバしい電器店(中略)。ベイショア沿いには新店舗が林立している。夏になると果物を売る屋台がずらっと並ぶようなものだ。オニールの店の右手、百ヤード先には、週七日、照明を終夜点滅させるピアノ販売店が建っていた。筋向かいには、映画館ほどもある広大な格安雑貨ストア。そしてその先にある酒場も、さながらスペンの城館とみえた。
新たな消費社会としての郊外のロードサイドの「新店舗」の林立が語られている。そして「オニール電器店」の卸が小売を兼ね、本場から直接仕入れる大型店チェーンによる買収も伝えられ、「大型店(ホットショット)」ではない「モダンTV」は廃業に追いやられるかもしれないのだ。
主人公のハドリーはファーガソンの「モダンTV」に勤めるテレビのセールスマンで、妊娠中の妻エレンがいるが、どこにも居場所がないというオブセッションに取りつかれている。それはインテリ、思想家、夢想家を自称する彼の性格、閉塞した商店街とニューディール体制の後退、東西冷戦構造などの問題の投影と考えられる。
ハドリーの分身のような存在として、高校、大学時代の友人で、労組や左翼刊行物に記事や論説を書き散らし、売文稼業で著名なデイヴがいる。かつてハドリーとデイヴは独立進歩党に属し、ニューディーラーの大統領候補ウォーレスを支援し、エレンはウォーレス学生連盟でガリ版を切っていたが、ウォーレス大敗後、ハドリーは党を離れ、デイヴも公民権運動に向かい、進歩党の魔女ともいうべきローラと結婚していた。
これには若干の補足が必要だろう。進歩党は一九四八年大統領選挙に際して結成された、共和党、民主党とは異なる第三の政党である。トルーマン政権の商務長官だったウォーレスが組織した「アメリカの進歩的な市民」を中心として、ニューディール左派、全国農民連盟、産業別労働組合会議、全米黒人地位向上協会などが加わり、基幹産業の段階的公有化、人種差別の廃止、米ソ平和外交を主張し、ウォーレスを大統領候補に指名した。だが進歩党は共産主義者の影響下にあると非難され、惨敗した。
ハドリーは医者の父を交通事故で失い、デイヴの父は労働者階級の職工で、元IWWに属していたこともあって、高校時代は二人とも民主党を支持し、山の手の裕福な共和党シンパたちと対立し、青年社会主義同盟を経て、進歩党に加わっていたのである。なおIWWに関しては本ブログ「ゾラからハードボイルドへ」5での「IWWについて」で既述している。
つまりこの二組の夫婦は左翼くずれ、もしくは挫折した進歩党員のその後の姿ということになる。デイヴはハドリーにいう。「きみらプチブルのホワイト・カラー労働者を、ぜひとも組合化したいもんだな。数百万人はいるはずだぜ。きみらは目立たない……巨大な金太郎飴の集団なんだ」と。
そのような構図の中に、セオドア・ベックハイムという黒人が主宰するイエスの番人協会なる宗教団体が太古の伝説にも似て、大きく浮かび上がってくる。聖書のお筆先のようにしてハルマゲドンを唱え、ベッグハイムの愛人マーシャはデイヴを取り巻く「天国の幼童たち」の一人で、「退化したディレッタント」とされ、彼女が発行する雑誌は人種差別主義者(レイシスト)、ネオファシストの冊子に他ならないのだ。
これらの登場人物の入り乱れるかたわらで、豊かなニュータウン、衰退し始めスラムのような商店街の様相、サンフランシスコ郊外の住宅開発地や分譲地の風景が描かれていく。朝鮮戦争の始まり、ダウンタウンの商店街の衰退、郊外の誕生と成長の中で、ハドリーは本連載12で示した、日本における八〇年代の「テニスボーイの憂鬱」と通底する「セールスマンの憂鬱」を抱えている。
そして自らのバニシングポイントを求めるかのように、「モダンTV」の正面ガラスの穴に跳びこみ、片目を失ってしまう。それはもはや正常な身体ではこれから生きていくことができないと告げているような行為でもあった。つまりアンドロイドのような存在として生き延びることのメタファーともなる。それゆえに『市に虎声あらん』に詰め込まれているのは階級、人種闘争を伴った「セールスマンの憂鬱」がもたらした悪夢的妄想であり、それがこの小説をスプリングボードとして、ディックならではのSFへと結実していったのであろう。
そのようにして『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫)も書かれ、それがリドリー・スコットによって映画化され、『ブレードランナー』の世界となって再現されたようにも思える。
![]() |
![]() |