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古本夜話344 吉田謙吉『築地小劇場の時代』と金星堂

バラック装飾社と考現学に携わる前後における吉田謙吉のことを一編書いておこう。今和次郎にもいくつかの顔があったように、吉田もまた様々な活動に加わり、本連載205で大正時代の相次いだ劇団や試演会の創立年表を掲載しておいたが、吉田はその中の踏路社や築地小劇場にも身を置き、それらについては『築地小劇場の時代』(八重岳書房、昭和四十六年)を著わしている。
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築地小劇場は関東大震災後の大正十三年、築地二丁目に設立された日本で最初の新劇専門の劇場で、新劇の興隆をめざして土方与志が小山内薫と計り、私財を投じて有志とともに建設した。八十坪で定員五百名弱、ゴシックロマネスク様式の一階建の小劇場である。これは建物自体のことだが、劇団としての築地小劇場は『演劇百科大事典』の定義を引き、簡略なプロフィルを提出しておく。吉田の記述は彼自身も「舞台装置家」ゆえに「裏方〈うらかた〉の眼」から見られたもので、オーソドックスな説明は施されていないからだ。

 築地小劇場は、その創設者土方与志が相当の年月の演劇活動にたえうる資産と多くの人材を擁して、みずからの劇団の結成と同時に最初から劇場を建設し、新劇運動に対する新しい理念をもって出発したところに従来の新劇団にみられぬ特徴があった。「演劇の実験室」「演劇の常設館」「理想的小劇場」「民衆の芝居小屋」ということが彼らの標語であった。彼らは出発にあたって同人制をとり、運営方針はすべての点で研究的で、あらゆる意味において非商業的立場をとり、観劇料の低減、維持会員制度の確立、公演時間の短縮を実行し、劇場は劇場であると同時に、俳優・演出・装置・照明・効果・舞台監督その他を養成する学校の性質をおびさせることを定め、それでこそ新劇運動であるという信念をもった。(後略)

しかし昭和三年に小山内薫が急逝し、支柱を失ったことで、翌年には分裂してしまう。だが『築地小劇場の時代』に収録された一枚の写真に「むかしの仲間」があり、高橋とよ、東山千栄子、杉村春子が並んでいるのを見て、彼女たちが小津安二郎の『東京物語』のメインの女優陣であることを思い出してしまった。さらにここに示されている築地小劇場のスローガンは、そのまま寺山修司の天井桟敷の旗揚げに際しても用いられている。これらの戦後の事実からも、築地小劇場のもたらした多大な影響をうかがうことができる。

東京物語
この築地小劇場に吉田は美術部宣伝部員として加わり、第一回公演のゲーリングの『海戦』で、舞台装置と衣裳を担当している。それに『築地小劇場の時代』所収の第一回公演のプログラムと吉田の記述を見ると、セリフは一つの端役ながら、俳優としても出演している。またその他にも口絵や収録写真にはシェイクスピアの『ヴェニスの商人』、イプセンの『人形の家』などの舞台装置、及び「理想的小劇場の開設」との言葉を添えた落成開場ポスターも見え、吉田の多彩な仕事を浮かび上がらせている。

そしてさらに具体的な経緯と事情は語っていないが、当時金星堂から出た川端康成の『伊豆の踊子』や『感情装飾』の装丁を担当したとの言がある。吉田の文芸書の装丁の仕事を知ったのは、日本の一九二〇年から三〇年代にかけてのグラフィックデザインを総集した『紙上のモダニズム』(六耀社、二〇〇三年)においてで、そこにはやはり川端の『浅草紅団』(先進社)も含まれ、その他にもかなり多くの装丁を手がけているとわかった。もちろん初版を持っているわけではないけれど、ただこれらの三冊はほるぷ出版の復刻で確認することができ、他のことはともかく、吉田と川端と金星堂の親しい関係を想像できた。


 『伊豆の踊子』 感情装飾 『感情装飾』紙上のモダニズム  浅草紅団

『築地小劇場の時代』の中に金星堂のことが出てくる。それらは金星堂が築地小劇場に演劇書を中心とする書店を出していたこと、第一公演の『海戦』(加藤武雄訳)などが金星堂から出版されていたことである。また本文ではないが、「あとがき」に相当する「カーテン・コール」収録の「著者歴」の「一九二九(昭和四)」年以後のところに、「新感覚派当時の川端康成・横光利一・片岡鉄兵を知り、のち『伊豆の踊子』他の装幀にたずさわる」とあるのを見つけた。しかし吉田も年代や場所などに誤りがあろうと断わっているように、『感情装飾』は大正十五年、『伊豆の踊子』は昭和二年出版なので、この記述にはタイムラグがあった。だが内野虎三の『金星堂のころ』にも、吉田や装丁に関する話は何も書かれていなかった。

ところが最近になって、吉田の娘である塩澤珠江の『父・吉田謙吉と昭和モダン』(草思社)が出され、そこに築地小劇場のポスター、舞台美術や映画美術、ブックデザインなどの吉田の仕事が多岐にわたってカラーで収録紹介された。そしてブックデザインの部分に『文芸時代』の装丁も挙げられていたことで、吉田が金星堂から刊行された新感覚派の『文芸時代』にも寄り添っていた事実を知った。
父・吉田謙吉と昭和モダン
そして塩澤が作成した「吉田謙吉略年譜」によって、吉田のバラック装飾社、考現学、築地小劇場時代と新感覚派の人々や金星堂との関係が重なって展開されていたことを教えられた。この「略年譜」に表記と異なり、詳細なという一言を付け加えたくなる。

またさらに戦時下における従軍舞台装置家としての海南旅行と『南支風土記』(大東出版社)の出版、内蒙古張家口への派遣と敗戦にもふれたいが、こちらは別のところで論じることにしよう。

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