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古本夜話347 横山信『図解本位新住家の設計』と『民家図集』

これは復刻された『写真集よみがえる古民家―緑草会編「民家図集」』を実際に見てもらうしかないのだが、ここに収録された民家の写真はすべてが玄妙なアウラを内包しているかのような印象で迫ってくる。それは今和次郎『日本の民家』所収の写真も同様であるけれど、こちらはA4判の復刻なので、迫力が異なると同時に、細部まで確かめられるというリアリティを伴っている。

写真集よみがえる古民家―緑草会編「民家図集」  日本の民家 日本の民家 相模書房版)

それならば、これらの写真を撮ったのは誰なのか。当然のことながら、同書の「解説」にあたる古川修文の「『民家図集』の誕生」においても、そのような問いが発せられている。

 それではいったい誰がこのすばらしい写真を撮影したのだろうか。それは奥付にあるように、「緑草会代表」の肩書を持つ横山信(よこやままこと)である。横山は横山大観とは関係ないが、大観とはごく親しい関係にあり、建築家であるとともに写真家であり、民家研究者でもあった。横山は、佐藤功一、大熊喜邦今和次郎らに師事し、世界の住宅に関心を持つ視線の延長として日本の民家にも傾倒した。

また主な著書として、『撮影探勝武蔵野めぐり』『図解本位新住家の設計』『建築構造の知識』などが挙げられている。これらの横山の本が本連載でも既述してきたように、カメラ書のアルスから刊行されていることは偶然ではないように思われる。これらのうちの『図解本位新住家の設計』は入手しているので、その内容を見てみる。横山は大正時代における住宅問題と「住家を取扱つた書物」出版の台頭から、その「はしがき」を始めている。

 世界戦争後住宅問題ほど喧しかつたものは少ない。しかし不幸にしてこの問題は、量の方面からも質の方面からも未だ一向に埒があかず、問題は依然将来に向つて懸つてゐるといふ有様である。たゞ此の間にあつて嬉ぶべきは、その潮時に乗じて、質の方面から―構造なり形式なり建て方なりの方面から―住家を取扱つた書物が、従前になく続々と世に出たことであつた。(中略)各々特色を持つて世人に住家研究の機会を与へ、また住家を営まんとする人達の好個の手引きとなつてゐるのである。

つまり横山の同書もそのような一冊として編まれ、生活と建築技術の進化に見合った住宅の改造、特に間取り、暖房、便所、台所が論じられ、新住宅のモデルとして、日本だけでなく、欧米の様々な建物が紹介されていく。それらは必ず写真と図面を伴っていて、その日本、欧米を問わない住宅のイメージから、本文にも見える生活とともにある「文化住宅」のコンセプトの具体的な提出が主眼だとわかる。ただ欧米の写真は洋書からの転載であろうが、日本の住居に関してはその印象から、横山による写真と推定される。

巻末広告に森口多里・林いと子『文化的住宅の研究』藤根大庭『理想の文化住宅』も掲載されているので、横山の著作もそのようなシリーズの一冊と見なせるだろう。そこには時代状況を告げるかのように、「プロレタリアも必要欠くべからざる程度に於て、衣食住の三つを享有すべき」で、住家は新居にしても借家にしても、「其処に暫らくの安住の地を見出す」という言葉も散見している。

しかし横山の『図解本位新住家の設計』の刊行が大正十二年であったことだけは記しておかなければならない。それは九月一日に起きた関東大震災の直前に出版されたことになるからだ。それゆえに先の二冊も同様だが、横山の建築家としての、住家に関する視線と思考も、大震災後にはかなりの修正を施さざるをえなかったはずで、それは大正十四年に出された『建築構造の知識』に反映されていると思われる。

さて話を『民家図集』に戻すと、古川の「『民家図集』の誕生」によれば、大塚巧芸社の大塚稔が白茅会版『民家図集』を試み、彼の近傍にいたと考えられる三十代後半の横山を活かす仕事として立ち上げたという道楽的側面もあったとされる。その大塚の期待に応え、横山は独りでカメラと三脚、取材用資料を以て、ひとつの県に一ヵ月程滞在し、その県内を歩いて撮影と取材に精力的に取り組んだ。その横山が取った写真を大塚巧芸社写真部と製版部が現像して製版し、印刷部を経て出版部が写真集として出版物へと仕上げたことになる。

(柏書房復刻版)
ここで気になってしまうのは『民家図集』と横山の背後にいた大塚稔のことである。本連載157で既述しておいたように、隆文館の草村北星は建築工芸協会を立ち上げ、『建築工芸画鑑』と『建築工芸叢誌』という「絵画外の国宝的重要美術図版の体制」を目的とする月刊誌を創刊した。それらの写真の撮影係こそが、後の大塚巧芸社の大塚稔だった。いってみれば、『民家図集』におけるすばらしい写真の達成は草村北星、大塚稔、横山信という系譜があって実現したことになる。さらにこのラインが彰国社にも引き継がれていったことは、これも本連載158で見たとおりだ。

近代出版史において、美術出版に関して田口掬汀の果たした役割の重要性を本連載でも何度も書いてきたが、草村もまた建築出版の分野において、そのパイオニア的存在であったと考えてもいいのではないだろうか。そして草村、大塚、横山の建築写真のラインは、続けて触れる洪洋社と聚楽社へも引き継がれていったのである。

なお大塚巧芸社のことだが、平成五年に刊行された『たくみのわざ―大塚巧芸社略史』が入手できず、そのアウトラインが描けない。いずれ読む機会を得て、それらを書き加えておきたい。

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