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古本夜話351 小川晴暘、島村利正『奈良飛鳥園』、安藤更生『三月堂』

前回『銀座細見』の著者安藤更生について、会津八一門下であることしかふれられなかったので、あらためて安藤のことを書いておこう。
銀座細見 (中公文庫)

『日本近代文学大事典』を引くと、安藤は明治三十三年東京生れ、本名正輝、美術史家とあり、早稲田中学で会津八一の薫陶を受け、大正十一年東京外語仏語科を卒業し、同年早大に学び、中退するが、日本、中国古代美術詩研究を志し、昭和十二年中国に赴き、同三十年に早大教授となっている。しかし著書として『銀座細見』は挙げられていない。

日本近代文学大事典

その一方で安藤は『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)にも立項され、まったく異なる姿を見せている。それによれば、父忠義は陸軍大学などの仏語教授で、大杉栄に仏語を教えている。東京外語卒業後、放浪生活に入り、その間に「父の弟子」大杉を始め、辻潤、宮嶋資夫、百瀬二郎、石川淳たちと知り合い、大杉との出会いは安藤の人生に決定的な影響を及ぼし、終生アナキズムを変わることなく奉ずる。
日本アナキズム運動人名事典

そして大杉虐殺の報復のための村木源次郎の福田大将襲撃事件に連座し、警視庁に捕えられる。また会津八一のもとで仏教美術研究に没頭し、銀座にも出没する。下中弥三郎の知遇を得て、中国に赴き、新民印書館設立に尽力する。戦後は早稲田大学にて仏教美術や日本ミイラの研究を進めるとある。

『日本近代文学大事典』の簡略で表面的な記述とまったく異なる『日本アナキズム運動人名事典』の立項は、それがこれも既述した『安藤更生年譜・著作目録』によっているからだ。この年譜によって少し補足すれば、新民印書館とは平凡社共同印刷などの三社、及び中国政府による中国百科事典や関係書の印刷と出版を目的とする合弁会社である。安藤は『銀座細見』を上梓した昭和六年に平凡社に入り、百科事典審査を担当していたことから、十三年に中国に赴任し、新民印書館編輯課長として、周作人の門弟ともなり、中国文化財調査、研究、収集、出版に敗戦まで携わっていたことになる。なお新民印書館は『下中弥三郎事典』に詳しく立項されている。

しかし両事典においてもまだ抜けている主要な経歴があり、それは奈良の飛鳥園から「仏教美術叢書」の第一、二篇にあたる『三月堂』『美術史上の奈良博物館』を刊行し、同じく創刊された『東洋美術』の編輯長を務めていることである。もちろんそれらは『安藤更生年譜・著作目録』には記されているにしても、『銀座細見』を出す前の昭和二年から五年にかけてであった。

それらの経緯と事情は、同時期に少年時代を飛鳥園で送った島村利正によって、昭和五十五年に書かれた『奈良飛鳥園』の中で描かれることになった。奈良の飛鳥園は古美術写真の出版社で、島村の伝記小説はその創設者の小川晴暘の生涯を描いている。小川も飛鳥園も出版史にはほとんど召喚されていないので、それらのアウトラインをラフスケッチしてみる。

奈良飛鳥園

小川は明治二十七年に姫路の旧藩士の血筋に生れ、父を早く亡くしたために、小学校を卒え、画家志望だったこともあり、十五歳の時から親戚の有馬の日野写真館で働くようになった。そして写真術を覚え、四十三年に上京し、虎の門宮内庁御用達で著名な丸木写真館に内弟子として入り、写真修業に励んだ。そのかたわらで、太平洋画研究所に通って水彩画を学び、二年の兵役を経て、大正七年に大阪朝日新聞社の専属写真部員となり、絵と写真の勉強にいそしみ、奈良に住み、和辻哲郎『古寺巡礼』を読み、奈良の古建築や仏像に魅せられていった。
古寺巡礼
そして小川の撮った石仏の写真を偶然に会津八一が目にし、絶賛したことがきっかけとなって、小川は独立して仏像写真の頒布会を、飛鳥園として立ち上げることを決意した。その命名は日本の仏像の最初の起源が飛鳥時代を出発点としていたからで、退職金でドイツ製の写真機と焼付け機一式を購入した。それは大正十一年のことだった。会津に連絡をとる一方で、小川は最も感動を覚えた東大寺の法華堂、俗称三月堂を撮影し、法隆寺百済観音や聖林寺の十一面観音までに及んでいた。そこに東京から会津の紹介状を持った奇妙な青年が訪ねてきたのである。それを島村は次のように描いている。

 髪をながくのばした青年で、ルパシカ風の上衣に、濃紺のビロオドのマントを羽織っていた。小川も長髪であったので、髪のながいのには驚かなかったが、会津の紹介状を見ても、学生なのか、画家か詩人なのか、よく判らなかった。彼の名前は安藤正輝と云った。のちに、唐招提寺鑑真和上の研究で知られる安藤更生である。

この「フランスの高踏派の詩人のようで」、「ひとの意志を衝くことが好きそうな、妙な青年」は小川の撮影を手伝うようになり、昭和二年に四十二枚の写真を収録した『三月堂』の刊行にいたる。安藤はその「序」に、島村の描写に見合った言葉を書きつけている。それは流行のように出ている古美術案内書の「多くは杜撰極りなき内容を持つた売文売名の徒の仕業」だが、自分は彼らよりも「確実にして正直な知識」「優れた素質の知識を探求している人間だ」と。

小川もまた巻末の「『仏教美術叢書』刊行について」で、古美術研究と鑑賞のための正しい知識とそれに基づく態度が必要であり、そのための信用のある美術書の刊行を「叢書」の目的とする旨を述べている。だが島村の筆致が暗示させているように、安藤の言は京都の宗教界とアカデミズムの反発を受け、オーナーにして苦労人の小川との関係もスムーズではなく、『東洋美術』の編集長を引き受けるところまでは続いたけれども、辞任に至るしかなかったようだ。

アルスの「カメラ講座」から始まり、飛鳥園まで、大正から昭和にかけてのカメラと写真をめぐる物語を追いかけてきたが、それらは美術や文学などと同様に、この領域においても様々な出来事が起き、写真の進化と発展がもたらされたことを教えてくれる。

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