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古本夜話353  エルンスト・ディーツ著、土方定一訳『印度芸術』

前回の『原色版ヴァン・ゴッホ』と同じ菊倍判ではなく、一回り小さいB5判であるが、やはりアトリエ社から『印度芸術』が出ている。これはエルンスト・ディーツを著者とし、土方定一によって翻訳され、昭和十八年に定価十二円、初版二千部として刊行されている。

裸本であるけれど、表紙にはインドの建築装飾をあしらった装丁で、三百ページ余の中に二七七に及ぶ写真と挿図を収録し、すぐに刊行が戦時下だと思い至らないような印象を与える仕上がりになっている。

その著者と翻訳事情について、土方は「例書」で次のように述べている。

 著者ドクター・エルンスト・ディーツに就いては私はウィーン大学で近東から東亜にかけての芸術史を講義してをられるという外に余り知らない。ただ数年前に偶然に同氏の「東洋芸術入門」(中略)といふ日本芸術と支那美術とについて案内風に書いたものを手に入れ、そのなかの絵画の日本的形式と支那的形式といふ一章を大変興味深く読んだことがある(中略)。こういつた関係から、氏の著書が自然と蒐ることになり、この「印度芸術」もこの領域について知るところ少ない私のいい参考書となつてゐたものである。氏は近東は勿論、印度、支那およびわが国をも訪ねたことがあるから、或いはその折に氏と親しくされた方がをられるかも知れない。

『印度芸術』は土方も明言しているように、この分野における類書のない「基礎的な入門書」で、インドの寺院建築、彫刻、絵画を主として、セイロン、ジャワ、タイ、ビルマなどにも及んでいる。特色は何といっても豊富な写真と挿図で、それは原書の他に十数冊に及ぶ関連洋書から抽出収録したものであり、いわば同時代のインド建築をめぐるイコノロジーの集大成といっていいのかもしれない。

また土方は『近代日本洋画史』(昭森社、昭和十六年)にディーツの『東洋芸術入門』の該当の章を収録したと記しているので、その戦後版『近代日本の画家論1』(『土方定一著作集』第6巻所収、平凡社)を確認したところ、削除されてしまったためか、見あたらなかった。またディーツの名前を『新潮世界美術辞典』などで繰ってみたが、これも掲載されていなかった。もはやディーツも戦前はそれなりに注目されていたにしても、もはや忘れられた美術史家の一人であるのだろう。

新潮世界美術辞典

それにディーツのこともあまり定かでないけれども、土方の戦後はともかく戦前のプロフィルも同様だと思われる。そのこともあって、立項は前掲の美術辞典などから『日本近代文学大事典』『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)まで多くに及んでいるが、どちらかといえば、近代美術史研究と神奈川県立近代美術館館長、美術館の運営や展覧会活動に重心が置かれている。

日本近代文学大事典 日本アナキズム運動人名事典

私は四十年ほど前に一度だけ、あるパーティでそのような位置にいた晩年の土方を見ている。だが私は、その頃すでに東大の美学にいた土方が、金子光晴夫人の森三千代の愛人で、その三角関係からの脱出をはかるために、金子と森が『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』(いずれも中公文庫)に描かれている東南アジアからヨーロッパまでの放浪旅行に至ったことを知っていた。また『日本アナキズム運動人名事典』にも記載されていなかったが、土方が同じく学生時代にアナキズムに接近していたことも。

どくろ杯 ねむれ巴里 西ひがし

『近代日本文学評論史』(昭森社版)

その後土方はベルリンに留学し、帰国してから昭和九年に本連載214でふれた明治文学談話会とその機関誌『明治文学研究』に参加し、近代文学に関する評論を次々に発表し、これも同215で言及した『近代日本文学評論史』を西東書林から同十一年に上梓する。なお後の調べによって、西東書林の渡辺亦夫は土方の友人で、東大独文科を出て、出版を始め、西東書林はリトルマガジン『日本浪曼派』の発行所にもなっていることを知った。

そして昭和十年代になって、文学関係から美術史研究と美術評論に移っていったとされ、前述したように、十六年に土方や大口理夫によって企画された「美術叢書」第一冊として、『近代日本洋画史』の出版に至る。これは近代美術史における実証的にして古典的著作との評価が与えられ、また同年には『岸田劉生』(アトリエ社)も刊行している。

このような土方の文学から美術という異なる分野への転進は、『近代日本文学評論史』に根ざしていて、それは同書所収の「森鷗外と原田直次郎」と「印象派の移植と『白樺』」が『近代日本洋画史』にも収録されていることに示されている。

『近代日本洋画史』の「後記」において、土方は近代文学と並行している近代美術の領域にも「同精神的な親和を求めたい」と思ったが、この領域が誰にも開墾されていないことに気づき、七、八年かけてこの時代の洋画蒐集家や健在の先行者などを訪ね、探索や談話筆記を経て、執筆に至ったと述べている。

そのような延長線上にアトリエ社との関係も始まり、ディーツの『印度芸術』の翻訳も成立したと考えられる。この中の一章がインド彫刻に当てられていることからすれば、先に挙げた大口が日本彫刻史研究に携わっていた関係で企画されたのではないだろうか。

アトリエ社の著書や翻訳も含め、この時代の大判の美術書の出版に関して、南方諸島関連書と同様に、全貌はつかめていない。これからも追跡するつもりだ。

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