前回の山本直樹『ありがとう』の物語形成に大きな影響を与えたのは、一九八九年の女子高生コンクリート詰め殺人事件だと既述しておいた。この事件については佐瀬稔のノンフィクション『うちの子が、なぜ! 女高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社)が出されているので、山本も『ありがとう』の構想にあたって参照したと思われる。
その佐瀬の八四年の著作に『金属バット殺人事件』(草思社)という一冊がある。これは八〇年に起きた事件で、川崎市高津区の新興住宅地において、浪人中の次男が就寝中の両親をバットで殴り殺すという惨劇だった。父は東大卒の一流企業勤務、母も素封家出身で短大卒、兄も早大出のエリートサラリーマンで、次男は二浪中といっても、高級住宅地に住む恵まれた家庭であり、どうしてそのような親殺しの事件が起きたのか、裁判も含めて、社会的にも広範な波紋を生じさせた。それゆえに『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版)にも立項され、佐瀬の作品も刊行されたことになる。
その裁判を通じて、一応は父母殺しの動機が明らかにされている。次男は受験の失敗のプレッシャーと予備校の成績も落ちこむ中で、父親のキャッシュカードを盗み、ウイスキーを買って飲み、自室に引きこもりがちだった。犯行当夜も同様だったところに、父親からカードで金を引き出したことを叱責され、出ていけと足蹴にされ、いつも自分の味方だった母親からもなじられ、動揺し、ウイスキーをあおった勢いで、両親殺しを決意し、犯行に及んだとされる。これらの詳しい経緯と事情は、佐瀬の『金属バット殺人事件』を参照してほしいが、この事件は前述したように社会的にも大きな反響を呼んだこともあって、このノンフィクションは八五年の日本推理作家協会賞評論その他部門の受賞作となっている。
この事件は郊外における家族と犯罪の転回点、もしくは『ありがとう』などのファミリーロマンスへとつながっていく、ひとつの予兆だったと思われる。だが八〇年代に入ったばかりで、まだ郊外住宅地という言葉が定着していなかったことに加え、東大卒の一流企業のサラリーマンのイメージもあってか、新聞の社会面トップでは「新興住宅街」「高級住宅地」における「惨劇」として報道された。しかしこれが紛れもなく、郊外の事件であったことは次のような佐瀬の記述からも確認できる。
その住宅街は、昭和四十年代末に、私鉄関連の不動産会社が高級分譲地として開発したところで、ほとんどの区画が二百平方メートル以上。郊外によくある、小さな家が軒を接して密集する住宅地ではない。その上に建つ建物も、一軒ごとに新しいデザインをこらし、家々の間には広くて清潔な道路がのびている。(中略)右側の丘陵地帯が静かな住宅地になっている。(中略)豪華ではないが、それなりに豊かな家が並んでいて、狭いマンションや公団住宅に住む人なら、思わず羨望の思いにかられそうな町の風景が広がる。
惨劇のあった家は、この町並みのなかでは比較的平凡な和風の構えで、道路から一段高い敷地に木造モルタルの二階建。庭にはツゲの植え込みがある。道を通りかかる人はよく、楽しげに庭の手入れをする主婦の姿を見た。一階が六畳、八畳の和室に洋風の居間、キッチン、風呂場、納戸。二階に二人の息子のための六畳が二つ、という間取りだ。夫婦はともに四十六歳。兄弟が結婚するまではまだ間があるが、ようやく収穫期を迎えようとしている一家には過不足のない住まいだ。サラリーマンが営々として働いた末に、りっぱに自力で手に入れた「終の住処」である。
前半の部分は本連載33で示した映画『ブルーベルベット』の冒頭のシーンを想起させ、また後半は同46の『定年ゴジラ』のくぬぎ台のマイホームの佇まいを彷彿させる。それこそ大都市の周辺であれば、至るところの郊外に見出される風景であろう。
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これもやはり『定年ゴジラ』のところでも記しておいたが、佐瀬もこの「終の住処」の地価上昇を忘れることなく、付け加えている。七六年に坪三十万足らずで手に入れた二百平方メートルの土地は、七九年に全国一の地価上昇率を記録し、三千万円ほどだった不動産は時価一億円以上となり、サラリーマンにしてみれば、「終の住処」入手の「実現の可能性のある夢の上限」を短時間で成就したともいえる。
その家の主人は瀬戸内海の島に生まれ、五六年に大学を卒業し、就職とほぼ同時に同じ島の娘と見合い結婚し、東京都内の社宅に住み、二人の息子にも恵まれた。彼の個人史をたどれば、昭和ひとケタ生まれの地方出身で、上京して大学に入り、そのまま東京で就職し、高度成長期と併走する一流企業のサラリーマンとなる。住居史は都内の社宅から始まり、その二十年後には新興住宅地における「夢の上限」に近い「終の住処」を手に入れたのである。
もちろん佐瀬もふれているように、サラリーマン史としては様々な屈折があったにしても、家庭と住居に象徴される生活は平和で、人もうらやむようなものに見えていた。それがどうして次男による両親殺しという惨劇へと至ってしまったのか、『金属バット殺人事件』はその謎に複合的視点から迫っているが、時代や社会の問題を必然的に孕んでしまう事件の多くがそうであるように、すべてが解明されたとはいえない。
しかしこの事件に対して、佐瀬の著作が刊行される前から、ひとりの写真家がアングルの異なる眼差しを注いでいた。それは藤原新也で、長きにわたってアジアを彷徨い、この事件の起きた八〇年から八一年にかけて、カメラとペンの複合からなる『全東洋街道』(集英社)を上梓し、八三年には金属バット殺人事件への言及も含んだ『東京漂流』(情報センター出版局)を刊行するに至る。
後者の『東京漂流』はアジアから日本へと帰還してきた藤原による戦後住宅、建築、風景論ともいうべきものである。藤原は『全東洋街道』に表出しているイスタンブールから高野山にかけての、いわば東洋のカオスと闇の中から戻り、そのままの視線を日本の同時代の社会にも向け、異化せしめようとしている。彼が記述している戦後史はあの「終の住処」の主人公がたどった裏面史、すなわち高度成長期のものひとつの歴史でもある。
藤原はそれを一九六〇年における福岡県門司港の旅館だった生家の崩壊、三里塚とその闘争に加え、「川崎市高津区宮前平」の家と土地を取り上げる。そうまさに両親殺しが起きたトポスに他ならない。またそれは藤原によれば、高度成長期によって育成された「八〇年代家族像を象徴的に顕在せしめた土地と家」であり、そこはかつて神奈川県橘樹(たちばな)郡宮前村大字土橋と呼ばれる農村だった。戸数五六戸、人口三二八人のこの農村は、六〇年に始まる東急建設の開発プロジェクトによって、坪当たり五一七円で買収、区画整理されていた。それが錬金術にも似て、七九年にいくらになったかは既述したばかりだ。
そして藤原は東急がそこを開発する前の農村風景、家や人々が写った記録フィルムを見たと述べ、その内容を記している。
そこには唖然とするような光景が写し出された。藁葺の農家が鬱蒼とした茅や竹林や杉林の中に陽ざしを受けていた。石垣の上に人が座って何するでもなく景色を眺めており、子供を背負った野良着姿の女が井戸のわきで洗濯をしている。またあるカットでは、家の中で十数人の老人が何かさかんに手を動かしていた。十数人の老人は輪になり、一つの玉がピンポン玉くらの大きさのある巨大な数珠の輪を一心にまわしているのであった。
私がそれを見て、あるショックを受けたのは、その宮前平の現在の風景や人々と、そのかつての風景や人々に見られる想像を絶するほどの距離(二〇年ではなく二〇〇年の距離を私はその間に見た)のみではなく、そのフィルムに映った人々や風景が、私の中に記憶化された、ある風景を呼び起こしたからだ。
そのフィルムの風景の中に私は「アジア」を見たのだ。
そして藤原は六〇年代以降の日本において、農村や田畑が失われていったことは、「日本と日本人が最後に保有していた『アジア』が崩壊した」ことだとも述べている。そして最後にフィルムの中に、開発プロジェクトに対し、組織的な反対運動があったことを物語る「反対」という「たどたどしい大きな文字で描かれた看板」が藁葺農家にかかっていたことをも報告している。
日本と日本人が「アジア」を崩壊させたことは、時代が人間と土地と家に基づくアイデンティティを失い、人間と人間との確執に向かい、それが金属バット殺人に表出したと見なし、藤原はその事件が起きた家と土地へ向かうのである。それは『フォーカス』連載「東京漂流」2として、81年10月2日の日付で、写真に撮られ、「金属バット両親撲殺事件の家」と題し、「血飛沫(ちしぶき)をあつめて早し最上川」を添えて発表された。この「盗作まがいの一句」も藤原によるもので、「最上川」とは「日本」の比喩だという。その家は秋の光を浴び、雨戸も閉められ、何事もなかったかのようにしんとした感じで映っている。
彼は意図的に日本晴れの日を選び、「一点の曇りも、死の翳りもなく、健康で清潔で、豊かな進歩と平穏な調和に満ちた、ニッポンの家庭と人々の笑顔によく似合う」写真、それも不動産屋写真のようなものを撮ろうとしたのだ。あたかもそれが「アジア」を失ってしまった「ニッポン」の象徴であるように。
しかしこの一枚で終わっているわけではなく、写真は続いている。次の「82年5月23日 家屋取り壊し さら地になる」とのキャプションが付された写真はもはや家がなくなり、茶色い地面と早くも生え始めた雑草、その裏の家とブロック塀が映っている。その次には「82年9月26日 夏草 生い茂る」とあり、わずかひと夏で見えていた茶色の地面は草で覆われてしまい、そこに家があった痕跡すらも失われてしまっている。そして最後に藤原はその庭の片隅に咲いていた小さな紫色のほととぎすの花の押し花写真を掲載している。それが夫人の「魂の残り火」のように見えたからで、ささやかな彼女の野辺送りの花にふさわしいといえるのかもしれない。だがこれらの写真が撮られたのはすでに三十年前のことであり、現在はどうなっているのだろうか。何事もなかったように新たなマイホームが建っているのだろうか。
またあらためて『全東洋街道』の写真を見ると、これも同じく三十年前の「東洋」であり、アジアであることを実感する。そして日本の六〇年代までの、郊外消費社会が出現する前の夜の闇の深さをも思い出す。だがここに収録された風景や土地や家も八〇年代の日本と同様に、いやそれ以上にグローバリゼーションとIT革命の時代を迎え、急速に「アジア」が崩壊し、失われていったと考えるべきだろう。