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古本夜話365 先進社『一平全集』と『人の一生』

大正時代に楽天とともに、岡本一平が日本漫画界の双璧と謳われたことにふれておいたので、『一平全集』にも言及しておくべきだろう。これもやはり昭和円本時代に『楽天全集』と並んで刊行されているからだ。しかも両者の全集は昭和四年から五年にかけて、ほぼ同時に出されていたのだが、『楽天全集』は七冊で中絶し、『一平全集』全十五巻で五万セットを売ったと伝えられている。
『一平全集』

二つの全集の中絶とベストセラーという対照的な出版史の事実から、楽天と一平が近代漫画の双璧だとされていても、実際の人気と新しさは圧倒的に一平の側にあり、楽天はもはや漫画家として人気の盛りを過ぎていて、その代わりに多くの弟子たちを育てようとしていたと見なすこともできる。

一方で、全集から多額の印税を得た一平は、息子の太郎をパリに留学させ、また妻の岡本かの子との二年間にわたるヨーロッパ生活を実現するに至り、この経験は太郎とかの子の後の人生に決定的な影響を及ぼすことになったのである。それゆえに岡本一家の外国体験に象徴される経済は、この『一平全集』に負うところが大きいはずだが、それに対する言及は少ない。かの子が『岡本かの子全集』(冬樹社、ちくま文庫)、太郎は、『岡本太郎著作集』講談社)としてまとめられ、没後の研究も進んでいることに比べれば、一平は昭和初期にかの子と同じ十五巻の全集は出されたものの、岡本かの子と太郎の母子の影に隠れてしまっているかのようだ。

岡本かの子全集 8 岡本かの子全集』8岡本太郎著作集1 岡本太郎著作集』1

それと関連してか、長年にわたって『一平全集』の版元、発行者を上村勝弥とする先進社のことに留意してきたのであるが、その全貌がつかめていない。ただ『一平全集』には発行者として上村清敏の名前も見えるので、先進社が上村一族を中心にして営まれていたことは間違いない。先進社については次回にあらためてふれるつもりである。

また一平は本連載321などでふれた磯部甲陽堂から多くの著書を出していることから推察すると、先進社の『一平全集』の企画にその編集者が関係していたとも考えられる。

さてそれらはともかく、一平の代表作とされる『人の一生』『一平全集』第六巻に収録されているので、楽天の漫画と比較する意味においても読んでみよう。これは「漫画小説」として、大正十年から翌年にかけて『朝日新聞』に連載され、昭和二年に大日本雄弁会講談社から刊行されている。

『人の一生』は「オギアより饅頭まで」と題する章から始まり、右側に幕から、親指と人差指の間に種らしきものをはさんでいる手が出されている漫画が置かれ、右側に「出生前後(一)」の一として、次のような文章が添えられている。

 今こゝに一つの生がこの世の中に宿つたのである。夫(それ)は誰(たれ)が齎したのか? 何処より? 
 何の為に……此等の疑ひは総(すべ)て神秘。幕の彼方に問へ。

そして二として、今度は右側に「唯野幹人(ただのみきんど)の妻、つま子は妊娠早五箇月の太鼓腹である」との文章が続き、左側に夜の茶の間で育児法の本を読んでいる幹人と針仕事をしているつま子の姿が描かれている。つまり幕が上がり、物語が始まったことになり、同様の漫画と文章によって、所謂「漫画小説」が展開されていく。

だがもはやおわかりだと思うが、その展開は「漫画小説」というよりも、無声映画と弁士の語り、もしくは映画と字幕のようでもあり、『岡本家の人びと』(「別冊太陽」)において、清水勲・湯本豪一が「一平の漫画世界」の中で指摘しているように、映画のロウアングル、ハイアングル、クローズアップなどのカメラ手法が駆使されている。それに加えて、時代風俗も描かれ、新聞連載の『人の一生』が人気を博した理由を教えてくれるようにも思われる。

岡本家の人々

『人の一生』において、生まれた子供は唯野人成(ただのひとなり)と名づけられ、「幼年期」「少年期」「青年期」と経ていくことになるわけだが、それはまさに主人公の名前に象徴されているように、平凡な男のビルドゥングスロマンならぬ、教養漫画小説とでもいうべきものに仕上がっていて、そのユーモアと悲哀は大正時代末のニュアンスを表象していたのであろう。それゆえに円本時代の『一平全集』の企画が成功したと見なしていい。

その一平の漫画小説を通過した後で、あらためて楽天の風刺漫画を観ると、一平の動画に対して、楽天はあくまで一枚物の風刺であり、近代漫画の新旧が否応なく浮かび上がってしまう。そして『一平全集』の成功と『楽天全集』の中絶という対照的な出版史の事実を再認識することになる。

夏目漱石は一平の『探訪画趣』(磯部甲陽堂、大正三年)に「序」(『漱石全集』第十六巻所収、岩波書店)を寄せ、「あなたの描いた漫画に多大な興味を有つてゐる一人」として、次のように述べている。
漱石全集16巻

 見る人は無論あなたの画から、何時何んなことがあつたかの記憶を心のうちに呼び起こすでしよう。しかも貴方の表現したやうな特別な観察点に立つて、自分がいまだかつて体験しなかつたやうな記憶を新しくするでせう。(中略)あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、其時我々に過去は斯んなものだと教へて呉れるのです。(中略)我々は落付いた眼に笑を湛へて齷齪と先へ進む事が出来ます。あなたの観察に皮肉はありますが、苦々しい所はないのですから。

それは一世紀近く過ぎた今でも変わっていないし、一平が描いた「特有な形」の漱石の顔も想起してしまう。今一度、一平の漫画小説を再考すべきようにも思われる。

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