出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話366 上村哲彌、先進社「子供研究講座」、第一公論社

先進社の出版物で最も印象に残っているのは、青野季吉『サラリーマン恐怖時代』だが、青野の回想録『文学五十年』筑摩書房)の中には、同書や先進社に関する言及はまったくない。また林房雄の小説『都会双曲線』も先進社から出ていたので、かつてそれらの単行本から先進社のことをたどっていこうとしたけれど、やはり手がかりがつかめず、断念してしまったという事情もある。

都会双曲線 (『新プロレタリア文学精選集』(9)所収、ゆまに書房復刻)

そこで残されたのは円本の「子供研究講座」全八巻で、これは昭和三年から四年にかけて出されていて、現在でも全巻揃いや端本を古本屋でよく見かけることができる。この「講座」は日本両親再教育協会編とされ、各巻十編から十五編ほどの寄稿によって構成されている。典型的な「講座物」の編集形式だといっていい。

ほぼ全巻にわたって連載寄稿が見られるのは、本会々長松本亦太郎と本会主幹上村哲彌で、この二人が日本両親再教育協会の主宰者だとわかる。それらのタイトルは前者が「両親のための一般心理学」、後者は「両親の再教育と児童研究」である。次に「両親再教育」とは何かということになるわけだが、これはアメリカにおける Re-education of parents の日本語訳で、上村は「同研究(一)」(第一巻所収)において、次のように説明している。

 両親は、新しい時代の我が子の教育者として見るときには極めて貧しい素養と訓練しか持ち合わせてゐません。否、何等の素養と訓練をも有せず、もし、何かあるとすれば、それは、とかく無理無益ないいかげんな常識や迷信にしか過ぎない(中略)。両親たることは世界至貴の職業であります。であります以上、(中略)親たるだけの教育のやり直しが必要で、欧米ことにアメリカ合衆国の進歩的両親、わけても母親たちは此の事実を正しく自覚いたし、(中略)多くの有力な指導的機関を創設しました。(中略)我が愛する母国にも斯の種の試みが極めて痛切であることを痛感いたしまして、敢て此の新しい運動のために「野に叫ぶもの」たらんことを決心いたしたのであります。

そしてその具体化がこの「子供研究講座」だったことになる。会長の松本亦太郎は『日本人名大事典』平凡社)に立項があり、明治二十六年東京帝大哲学科を終え、アメリカやドイツに留学後、東大教授や日本女子大児童研究所長を務める。また日本の心理学の創設者で、日本心理学会を設立し、初代会長となり、東大や京大に心理学実験室を創設し、実験心理学的基盤を作りあげ、著書は学術書から通俗書にまでわたり、心理学の普及に大きく貢献したと述べられていた。

さてここまでは判明したのだが、松本の立項には日本両親再教育協会も出ていなかったし、上村哲彌についても、前回記述したように、先進社を営む上村一族の一人ではないかと推測するにとどまっていた。ちなみに「子供研究講座」の編集兼発行人は『一平全集』にも見えていた上村清敏であった。
『一平全集』

ところが昨年出された『出版文化人物事典』日外アソシエーツ)に上村勝也と上村哲也が立項され、上村勝也は明治二十九年鹿児島県生まれ、中央大学卒業、改造社を経て、先進社社長とあった。彼のことはともかく、まったく知らなかったのは上村哲也のことで、それを抽出してみる。哲也は明治二十六年生まれで、大正八年に東京帝大から満鉄へ入社し、東亜経済調査局に勤務する。そして昭和三年に松本亦太郎を会長として、日本両親再教育協会を創立し、機関誌『いとし児』を発刊し、同七年には満州国文教部学務司長となる。

出版文化人物事典

それからの経緯は詳らかでないのだが、昭和十四年に第一公論社を立ち上げ、『公論』を創刊する。『日本近代文学大事典』によれば、『公論』は満鉄総裁松岡洋右の援助下に発足し、上村哲弥が社長、弟の勝也が編集を担当し、「尊王攘夷」「内的勦減」を目標とする急進右翼雑誌とされる。

日本近代文学大事典

『出版文化人物事典』で、勝也は第一公論社副社長ともなっていたが、おそらく彼は先進社を閉じ、兄の第一公論社へと合流し、『公論』の編集に従事することになったと推測される。当初は改造社や先進社の関係から、『公論』には幅広く小説の創作なども掲載されていたが、戦争の進行とともに、それらは排除されていったのだろう。

兄の満鉄、東亜経済調査局、日本両親再教育協会、満州国文部官僚といったプロセス、弟の改造社と先進社の文化的環境から、第一公論社の『公論』へと合流していく兄弟の回路は、昭和十年代後半の出版状況を考える上で、とても示唆に富んでいるように思われる。

敗戦を迎え、『公論』は昭和二十一年まで出されたようだが、兄は公職追放を受けながらも昭和五十年代まで存命している一方で、弟のほうは没年が不明となっている。上村兄弟の戦後のドラマも様々にあったはずで、戦前の『公論』をめぐる問題とそれらの事情も加わり、先進社への言及が避けられるようになったのかもしれない。

なおそれぞれの出典による表記に従ったため、上村の名前が哲彌、哲也、哲弥と三重表記になってしまったが、諒とされたい。その後必要があって再読した萱原宏一『私の大衆文壇史』青蛙房)において、上村兄弟の第一公論社の戦後の廃業事情への言及を目にした。

私の大衆文壇史
また「神保町系オタオタ日記」にも上村兄弟に関する言及があり、清敏=勝弥説も紹介されていることを付記しておく。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら