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古本夜話367 第一書房と宍戸左行『スピード太郎』

前々回、岡本一平の漫画小説『人の一生』における映画の影響にふれた。だが残念なことにこれは判型が四六判で、漫画と文章が混在化していたこともあって、それぞれもコマに映画手法を見出しても、『人の一生』自体が映画のようだとは感じられなかった。

しかし昭和に入ると、映画そのもののような漫画が出現し、それはB4判の美術書のように装丁造本され、出版されたのである。著者は宍戸左行、そのタイトルは『スピード太郎』で、昭和十年に第一書房から刊行され、それから半世紀過ぎた昭和六十三年に三一書房『少年小説大系』資料編1として復刻に至っている。

スピード太郎 少年小説大系

ストーリーを紹介してみよう。太郎がドライブしているシーンから始まり、その黄色い車が怪しい男たちの乗るトラックと接触する。その時、はずみでトラックから落ちてしまった植木鉢の底から金貨が出てきたので、太郎は届けようとして追いかけていくと、不思議な家が見つかり、様子を探っているうちに捕えられてしまう。怪しい男たちは世界の金貨の半分を集めようとするドルマニア国王の手下で、太郎はうまく逃げ出し、家に戻るが、追手たちによって再び捕まってしまう。それらの逃走と追跡は車のみならず、大型クレーン、落下傘、飛行機、船なども登場し、舞台背景はスピーディに次々に変わっていく。

これは最初の「金貨ギャングの巻」の八ページを紹介しただけだが、オールカラーで描かれていたわけだから、当時の読者に対しても、『スピード太郎』は日本の白黒映画ばかりを見ていた後で、いきなり総天然色のアメリカ映画に出会ったような印象を与えたにちがいない。

在米中に映画フリークであったらしい宍戸は、同時代に起きている現実の出来事とともに、映画が持っているスピード、夢、科学といったものを充分に意識していたはずで、巻末に次の言葉を記している。

 新聞のコドモ漫画にはスピードが必要です。そして夢を満載し、科学を延長した理外の世界に少年少女を連れ出すのです。ところで筆者は日常新聞紙の中に呼吸する漫画家、幸か不幸か大人の世界をゆすぶるほどの事象、たとへば金解禁、金の偏在、満州事変といつたものはいつの間にか漫画の王国にまで反射して太郎サンは一層多忙に駆け廻ることになる。

明治後半の北沢楽天、大正時代の岡本一平と近代漫画をたどってきたわけであるが、それらがホップ、ステップだとすれば、宍戸の『スピード太郎』とそこに示された言葉に至ってジャンプの段階に入り、すでに現在のコミックの誕生を見ていいように思われる。特に宍戸の言葉の前半は手塚治虫の世界を彷彿させ、同じように車の場面から始まる手塚のデビュー作『新宝島』にしても、この『スピード太郎』を意識していたのではないだろうか。

新宝島

大正四年に初めての漫画団体として、新聞社に勤めていた漫画家たちによって東京漫画会が結成され、同十二年に日本漫画会と改称する。そのメンバーと新聞社は北沢楽天(時事新報)、岡本一平朝日新聞)、池部釣(国民新聞)、近藤浩一路(読売新聞)、下川凹天(中央新聞)、宍戸左行(毎夕新聞)たちで、私のいうホップ、ステップ、ジャンプとめざましい進化を遂げた近代漫画のキーパーソンが一堂に会していたことになる。この会は昭和元年の日本漫画家連盟へと継承されたと思われる。

復刻版『スピード太郎』の「付録」に寄せられた「宍戸左行年譜」によれば、明治二十一年福島県伊達郡桑折町に生まれ、福島中学校卒業。終生子弟関係を結ぶことになる英語教師に、内村鑑三の弟の順也がいた。大正元年に洋画修得のために渡米後、内村順也もやってきたので共同生活を送る。アルバイトのかたわら、カリフォルニアのキャノン塾や漫画の通信教育で学び、九年の在米生活を経て帰国し、毎夕新聞社に入社し、政治風俗漫画を描く。左行のペンネームは帰国後に左側通行の立て札を見て思いついたという。昭和に入って読売新聞社に移り、『読売新聞』の「色刷付録少年新聞」に三年間にわたって『スピード太郎』を連載し、その他にも多くの政治漫画や児童漫画も描き、戦後は児童漫画から水墨画へ向かったが、昭和四十四年に亡くなっている。

宍戸のそれらのことはひとまずおくとして、『スピード太郎』の出版事情にふれると、これは第一書房長谷川巳之吉の企画で刊行され、戦前の児童漫画史上かつてない豪華単行本に数えられている。それは第一書房版からの復刻を見ただけでわかるし、しかも奥付には定価一円五十銭で、初版五千部とある。

本連載289などで、主として特価本業界=赤本業界によって担われていた戦前の漫画の生産、流通、販売事情に言及しておいたが、当時の近代出版流通システム内にあって、このような漫画の豪華本が初版五千部を確保できたということは信じられないような気がする。何か別に販売ルートでもあったのではないだろうか。例えば、連載した読売新聞社が何らかの景品か賞品、もしくは拡販商品としてかなりの部数を買い上げるという条件付の、第一書房による出版だったのではないだろうか。

そのように考えてみると、漫画に理解があったと思えない長谷川直々の企画だったという事情の背景にある事柄が見えてくるようにも思う。『スピード太郎』の漫画の成立事情はそれなりに解明できるけれど、出版をめぐる謎はまだ完全に解けたとはいえない。

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