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混住社会論52 宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)

不在


前回は小説におけるファンタジーのようなコンビニ、前々回は現代詩に描かれたイメージとしてのコンビニを見てきたが、そうした色彩ゆえに現実のコンビニの名称は使われていなかった。そこで今回は同じフィクションながら具体的にコンビニ名を散りばめ、そこを物語のひとつの起点とするような印象を与える作品を取り上げてみる。それは劇作家でもある宮沢章夫の小説『不在』で、主要なコードのようにローソンの名前が挙げられている。

『不在』は二〇〇四年七月十一日早朝、埼玉県北葛飾郡栗橋町の利根川沿いの河原敷で、若い女の水死体が発見される場面から始まっている。それは十七歳の少女で、上流の北川辺町本郷の利根川に合流する渡良瀬川に身を投げ、半日かけて栗橋まで流されてきたのではないかと見られた。渡良瀬川の川岸で、彼女の遺留品を見つけたのは、異形の乞食女だった。年齢不詳で襤褸をまとい、聞いたこともないような言葉をぶつぶつ呟いているので、「詩人」と揶揄され、コンビニで食べ物をあさっている姿も見られていた。その遺留品のバッグに残されていたノートには「あんめいぞうすまれや」で終わる意味不明の言葉がつづられ、読解できず、遺書なのかも確認できなかった。

少女の名前は松田杜季子で、北埼玉郡北川辺町で土建業を営み、町会議員でもある松田貞治の娘だった。彼女の自死は町の住民に、すべてが終結したのではないかという安堵感を与えた。それには次のような背景があった。「北川辺ではこの百日あまりのあいだに死の匂いが町を覆い、殺人が連続して発生しており、杜季子の死がこれらの忌まわしい出来事の終わりを告げる象徴だと人々が理解した」からだ。

それらの事件を追う前に、『不在』の舞台である北川辺町というトポスを紹介しておくべきだろう。この町は埼玉県の中で利根川の北に位置する唯一の地域であり、また関東地方のほぼ中央に位置していて、群馬、栃木、茨城、埼玉の四県が接するという、ロケーション的にいくつもの奇妙な様相を帯びていた。しかし町となっていても、そこがかつては農村に他ならなかったことは明らかで、そのような描写が繰り返し挿入されている。そのひとつを抽出してみる。

 なにもない土地だ。田だけがどこまでも広がり、ときおりこじんまりとした宅地があって、小さな家が並び、家の格が高いとされる古くからこの土地の続く一族らの屋敷は、かつて洪水が頻繁に襲った時代を物語るように敷地自体が少し高い位置にあった。どこにいても誰かが見ているような町は、広々とした田だけが目立ち、夏になれば太陽を遮る日陰などどこにもなく、強い光線が容赦なく地に落ちてくる。隠れているにしろ、トーキョーから車で来るにしろ誰かがきっと見ている。

田の中にある「こじんまりとした宅地」とは、町にいくつかある開発された住宅地帯を意味し、「トーキョー」から移ってきた住民もいるし、『不在』の主要な登場人物と家がそうである。

またそのような風景の中にあって、ローソンが広い駐車場を備え、登場人物たちの集合場所となっていて、他にもヤマザキデイリーストアが出てくる。とにかく『不在』にあって、コンビニは車と携帯電話と三位一体といっていいほどの物語機能を有している。それは国道沿いのファミレスのCoco’sにも共通し、ラブホテルも同様である。その他にもパチンコ店やカラオケボックスも挙げられる。要するに北川辺町もまた郊外特有のロードサイドビジネスに包囲されているのだ。そのような北関東におけるロードサイドビジネス状況について、『〈郊外〉の誕生と死』立松和平『遠雷』河出文庫)を例に挙げ、既述しておいたが、特異なロケーションを占める北川辺町もまた、「トーキョー」の郊外の農村とロードサイドビジネスが混住する典型と見なしてかまわないだろう。

〈郊外〉の誕生と死 遠雷

少しばかり飛んでしまったが、その北川辺町で起きていた「忌まわしい出来事」とは何であったのか、それらを確認してみる。この地域の公共事業は土建会社の北利根組が多くを請け負い、悪い噂も含めながらも会社が大きくなるにつれて、それに関わる者も必然的に増え、何か事件が生じると関係者が絡んでいる確率も高くなっていた。

様々に事件が続いていく発端は、〇三年五月に北利根組の役員牟礼冬一郎が、工事中のビル現場で落下事故のために死んだことで、そのわからないことが多い事故はいくつもの噂を発生させた。それは息子の秋人の存在にもかかわらず、半年後に冬一郎の弟の夏郎治が兄嫁真由美と入籍したこともひとつの原因だった。牟礼家は豊臣時代からの古河足利の血を引く名家とされていた。

父の死と母の再婚があってなのか、〇四年三月に秋人は失踪してしまう。秋人と死んだ杜季子は恋仲だったが、彼女にも何も言い残さず、姿を消していた。『不在』のタイトルはこの秋人の失踪に基づき、『文学界』〇四年八月号初出の際には『秋人の不在』とされていたのである。それは次のような一文にも表われている。

 牟礼秋人という「不在」は、一人の男が姿を消したという以上のものを仲間たちに印象づけ、だからこそ、呼びかけても手応えのない声のように模糊とした不安を暗示させ、なにか忌まわしいことを生み出す兆しなのだと思わせもした。

その予兆のように二月頃から、利根川河川敷に戦国時代の甲冑をまとった男が夜中に出現するという幽霊譚が郊外伝説もどきに伝えられ始めていた。秋人が行方不明になってから二週間後、彼の遊び仲間だった贄田、倉津、小西たちは肝試しをしようとローソンの駐車場に集まったりしていたが、そのうちに次々に事件が起きていった。

まず二十代半ばの主婦が殺された。彼女は田の中の造成地の一軒家に住み、夫は北利根組の営業マンだった。続いて三十代前半の男が神社の裏手で頭部を強打され、殺された。彼も北利根組の臨時作業員として働いていた。それから杜季子の父で町会議員の松田貞治が、これも田の中にあるスナック銀世界で謎の大爆発が起き、殺されてしまった。彼も北利根組の土建仕事を請け負う会社を経営していた。つまり三人はいずれも北利根組と関係していたことになる。

そのような事件のかたわらで、濃紺の車に乗った男やスバルのレガシーを運転する秋人に似た男などがコンビニや路上に出没し、贄田たちは秋人の行方を求めて新宿へと出かけたりするが、そこでも交通事故によって倉津が死に至ってしまう。

そうした事件の中で、杜季子はいう。「人が聞いたらおかしいと思われるかもしれないけど、なにかが人を動かすの。人にはわからない大きな力。だから、あんめいぞうすまれやって、やっぱりあのときも唱えるしかなかったの」。そして彼女を含めた町の多くの者たちがスナック銀世界の燃え上がる炎を見つめる光景は、太古の人々が火を囲み、何らかの祭祀としてあがめているようでもあった。

『不在』の物語はそれらの帰結であるかのように、杜季子の自死に至るストーリーとして説明されているのだが、事件は終わったわけではなく、その半年後に「新たな事件」、しかも「さらに凄惨きわまる血なまぐさいもの」が発生したとされる。しかしそれは冒頭の杜季子の死に添えられた予告編のようなコメントで、実際に何が起きたのかについての具体的言及はなされず、物語は閉じられている。

それゆえに『不在』という物語は「トーキョー」の郊外たる北川辺町において、その重要な位置を占める土建会社役員の死をきっかけにして起きた息子の失踪、彼らの死と失踪に関係しているかのように続いていく、様々な殺人事件などが描かれていくのだが、それらの謎はほとんど解明されるに至っていない。つまり町で起きた事件の波紋とその拡散が主眼となっている。それゆえに連鎖して起きていく事件と、町の人々の行動や心的現象がパラレルに書きこまれ、謎が重層化し、さらに近親相姦なども含んで謎をよぶかのように進んでいく。

また北川辺町は関東における隠れキリシタンの地でもあり、「あんめいぞうすまれや」とは「アーメン、ゼウスマリア」と解釈してもいいように思われる。それに加え、北川辺町田中正造の谷中村における抵抗、戦後の大水害と沼の埋立てといった英雄伝説や洪水伝説も残存している。それらは「トーキョー」の郊外に根づく様々な伝説を暗示している。

このような『不在』の物語を読んでいくと、デジャヴュに捉われ、必然的に中上健次『枯木灘』河出文庫)などにおける神話的世界を想起してしまう。そういえば、殺された臨時作業員は「紀州」出身の頑強な男とされていたし、ここに中上の作品の影響をうかがうことができる。それもさることながら、『不在』の巻末に「主な引用、ならびに参照」資料が掲載されている。

枯木灘

その中にシェイクスピア『ハムレット』福田恆存訳、新潮文庫)とフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』(大橋吉之輔訳、冨山房)を見出すと、『不在』が「トーキョー」の郊外の北川辺町を舞台としながらも、この物語が『ハムレット』『アブサロム、アブサロム!』の変奏であり、また宮沢が劇作家だったことにあらためて気づかされる。

ハムレット アブサロム、アブサロム!

『不在』の表紙写真と始まりにあって流れてくる少女の水死体は、ミレイが描いた『ハムレット』のオフィーリアのようだったが、紛れもなく杜季子はオフィーリアなのだ。そして「詩人」は彼女を埋葬する「道化」にあたる。さらにハムレットは秋人、ホレイショーは贄口、急死した父王は冬一郎、母のガートルードと再婚する叔父クローディアスは真由美と夏郎治ということになる。

また『アブサロム、アブサロム!』『不在』を照らし合わせるならば、前者の舞台のヨクナアパトファが北川辺町、サトペン家が北利根組、牟礼と松田一家、フォークナーのタイトルは『不在』の「あんめいぞうすまれや」に相当するのではないだろうか。アメリカ南部の物語のパラダイムが日本の北関東の物語へと移植されていたのである。フォークナーに関しては、本ブログ「ゾラからハードボイルドへ」14で「フォークナーと『ヨクナパトファ・サーガ』」を書いているので、よろしければ参照されたい。

そのように『不在』を読んでみれば、杜季子の死後に予告されていた物語が、まさに水中のオフィーリアのように浮かび上がってくる。ハムレットの父王は叔父に殺され、ハムレットはその復讐を果たすが、自らも毒剣で刺されたことで死んでしまう。おそらくそれが『不在』にあっては、主人公がいない世界で起きる物語を描くことを目的としていたと解釈することも可能である。なぜならば、郊外とはコンビニを始めとする画一化、均一化の象徴的空間であり、そこには突出した主人公、すなわちヒーローは必要とされていない世界なのである。だがそれでも事件は起きていく。そのような世界のメタファーとして『不在』は提出されたのではないかとも思える。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1