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古本夜話380 尚文堂、西條八十『砂金』、野口雨情『十五夜お月さん』

前回具体的にふれられなかったが、交蘭社は俳句書を刊行するだけでなく、詩や童謡の出版社でもあり、その別名を尚文堂という。それぞれ代表的な詩集と童謡集が手元にあるので、この二冊を紹介してみよう。

一冊目は西條八十の詩集『砂金』で、浜松の時代舎で購入している。これは交蘭社から昭和八年六月に初版が出されているが、私の所有するのは同十一年十月十五版で、信じられないほど版を重ねているとわかる。しかもこれは第一詩集で、二円三十銭という高定価、しかも自費出版だったことからすれば、思いがけないほどの売れ行きを示したといっていいだろう。

砂金 日本図書センター、復刻)
西條が「自序」で述べているように、この詩集は明治四十五年頃から今日の大正八年にかけての作品で、「砂金」の章における四十編の詩、「遠き唄」の章の九編の童謡、「曠野」と題する三編の散文詩からなり、彼は詩作のモチーフについて、同じく「自序」で次のように記している。

 詩作の態度としては、私は始終自分の心象の完全な複本(カウンタアパート)を獲たいとのみ望んでゐた。故国木田独歩氏が少年時の私に聴かされた言葉の中に、『昔から人の死を描かうと企てた作家は多い、が孰れも其人物の死の前後の状態、若くは其臨終の姿容を叙述するに止り、当の「死」其物を描き得た者は絶えて無い』と云ふのがあつた。(中略)私が今日像現しようと努めてゐるのも、独歩氏のこの所謂「死」其物の姿に他ならぬ。(後略)

それはまた「日夜の心象の記録」でもある。『砂金』の中の詩に言及したい誘惑に駆られるのだが、長くなってしまうことと、後述する野口雨情の本とも関連するので、ここではそれを慎み、「童謡」部分にあの「唄を忘れた金絲雀は後の山に棄てましょか」で始まる「かなりや」の収録があることだけを記しておきたい。これは鈴木三重吉からの直接の依頼で、『赤い鳥』の大正八年第五号に掲載されたものである。

『砂金』自費出版は知られていたけれど、交蘭社との関係は定かではなかった。しかし、平成三年に国書刊行会から『西條八十全集』が出され始め、その第一巻に彼が詩人としての位置を確立したとされる『砂金』『見知らぬ愛人』(交蘭社、大正十一年)、『美しき喪失』(神谷書店、昭和三年)が収録され、紅野敏郎の「解題・解説」などによって、それらの出版事情が明らかになった。その頃玄文社から柳原白蓮の歌集が出て、その装丁が羊皮を美しく染めたものだった。西條はそのような装丁で詩集を出したかったので、玄文社の長谷川巳之吉を訪ねたが、うまくまとまらなかった。そこで長谷川が尚文堂まで同行し、その養子の飯尾謙蔵に紹介の労をとってくれた。
西條八十全集 西條八十全集』『美しき喪失』

『砂金』は出版したけれども、書店からの注文はわずか二十部しかなかった。だが、書評や口コミで評判となり、詩集としてはめずらしいほど売れ、十八版まで数えたという。その出版が契機となって、飯尾は詩書専門の交蘭社を興すことになる。つまり『砂金』の初版は尚文堂版として出され、後に交蘭社版へと移行したのである。
(尚文堂版)

その尚文堂の二冊目は野口雨情の『十五夜お月さん』で、こちらは大正十年に初版が出されている。この刊行年からわかるように、尚文堂が交蘭社と社名を変えたのは、恐らく大正十一年からのことだったと思われる。『十五夜お月さん』『砂金』と異なり、ほるぷ出版の「名著複刻日本児童文学館」の一冊なので、初版をもとに複刻されていて、巻末広告には西條の『砂金』を始めとする既刊近刊五冊、柳沢健や水谷勝や竹久夢二の詩集などが尚文堂名で出され、まだ交蘭社に社名を変えていないことがわかる。

十五夜お月さん

野口雨情は大正八年に西條の紹介で『金の船』に童謡を掲載したことから、翌年に本連載293でふれた金の星社に入社し、『金の船』に発表した作品を中心とし、『十五夜お月さん』を上梓している。これは本間長世の曲、岡本帰一の画を添えたもので、タイトルの他にも「青い空」「七つの子」といた名作も含まれ、雨情の初期の傑作を網羅した第一童謡集とされる。

その売れ行きであるが、藤田圭雄が『日本童謡史』(あかね書房)で報告しているところによれば、上製四六判一六四ページ余、定価一円二十銭で、六月初版が十月には十一版と確認されているので、『砂金』以上に売れた事実を伝えている。『砂金』のこともさることながら、飯尾が交蘭社として詩や童謡の出版に専従しようと決意したのは、この『十五夜お月さん』の売れ行きを身をもって体験したからではないだろうか。
日本童謡史

巻末広告にあるように、雨情は『十五夜お月さん』の出版に先立つ同年二月に、尚文堂から「抒情詩名作著書」二編として、最初に民謡と銘打った『別後』も出し、こちらもすでに第四版とあるので、好評な出だしであり、彼が大正十年に民謡・童謡詩人としての位置を確立したことを物語っているように思える。実際に金の星社の佐藤佐次郎が「『金の船』=『金の星』と雨情」(『みんなで書いた野口雨情伝』所収、金の星社)において、雨情の名声は上がり、講演に招かれることも多くなり、金の星社にも毎日出られなくなり、所謂名誉社員のかたちになっていったと述べている。それから関東大震災もあって、「枯すすき」の「船頭小歌」が流行り出し、さらに人気が高まっていったのである。

それは民謡・童謡詩人の主著二冊を刊行していた尚文堂にとっても同様であり、そこで交蘭社と社名を変えたのも必然的だったと思われる。なお尚文堂と雨情をつないだのも西條八十だと考えて間違いないであろう。

また尚文堂は一時期の『青鞜』の発売所だったことも付け加えておく。

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