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古本夜話393 八雲書林と青磁社

 矢川澄子の『野溝七生子というひと』はタイトルからすれば、当然のことながら野溝の評伝、もしくは彼女に関する回想記のような印象を与える。だが前回記述しておいたように、この一冊の半ばは「鎌田敬止というひと」とその出版の仕事に向けられている。また野溝の作品も鎌田の手によって出版されているのである。

 したがって同書は野溝と鎌田、出版との三題噺のようにも読むことができる。そのような構成とした矢川のモチーフについては次回ふれることにして、ここでは鎌田が設立した八雲書林、及び編集長を務めた青磁社に関して言及してみたい。

 八雲書林は昭和十四年に北原白秋の歌集『夢殿』を処女出版として始まり、翌年には様々な歌集を加え、野溝の小説『女獣心理』も刊行している。矢川の同書所収の「野溝七生子・鎌田敬止略年譜」には二人が共同生活に入った年は記されていないが、野溝の十四年における大田区調布嶺町への転居と八雲書林の設立は同年であり、その住所が同じであることからすれば、二人の共同生活と出版活動はともに手を携えて始まっていたことになる。

 八雲書林の本は一冊だけ手元にあり、それは蓮田善明の『鴨長明』で、「八雲書林選書」の一冊として、昭和十八年に刊行されている。ちなみにその住所を確認してみると、大森区調布嶺町と戦前の表記ではあるけれど、そのまま変わっていないとわかる。著者の蓮田は国文学同人誌『文芸文化』に拠っていた国文学者で、敗戦をマレー半島で迎え、自裁し、三島由紀夫に称揚されたことで知られている。そのはしがきに『文芸時代』連載のものを、「八雲書林主の勧めにより此の本を編む」との一文が見えている。
 
 その巻末広告を見ると、単行本として金田一京助『増補国語研究』、湯澤幸吉郎『国語学論考』、「選書」として風巻景次郎『神々と人間』、井上豊『国学論』といった研究書が並び、最後に前述の白秋たちの歌集二十冊が置かれ、そこでようやく八雲書林が歌集を主とする出版社だとわかるようになっている。これも戦時下の出版事情の投影であろう。

 ちなみに蓮田の本はもう一冊あって、それはやはり同年に新潮社から出された「日本思想家選集」のうちの『本居宣長』である。八雲書林版の上製に対して、新潮社版は並製で、戦時下における文芸書の位相と出版物へのこだわりの差異が表われているような気がする。『新潮社七十年』に目を通すと、この「日本思想家選集」が「戦時下の新潮社の出版活動の最後」であり、蓮田の著者の他に、保田与重郎の『芭蕉』を始めとする五冊が刊行され、蓮田などの著作の出版を通じて、八雲書林のみならず、戦時下の新潮社の一端を伝えているといえよう。
 (「日本思想家選集」、新潮社)

 昭和十九年に八雲書林は出版社企業整備による青磁社に統合され、鎌田はその編集長に就任する。青磁社は山平太郎を発行者とする出版社で、こちらはフランス詩を主として刊行している。私はヴアレリイの菱山修三訳『若きパルク』の一冊しか所有していないが、これは濃いモスグリーンの箱入、菊判九十ページ余で、活字の組み方は本連載62の平井功の『游牧記』を明らかに意識していて、装丁、造本、内容からみれば、これが昭和十七年刊行とするという戦時下の出版物だとは思われない。

 この巻末広告には『若きパルク』の他に、菱山訳『魅惑』『海を瞶めて』『旧詩帖』が『ヴアレリイ全詩集』全四巻として掲載され、この「翻訳に精魂を傾けること約十年、真に鏤骨彫心の名訳によって、此の完訳の偉業は茲に完成」とある。他にも高村光太郎、小林秀雄、堀辰雄などよる訳『仏蘭西詩集』、ボードレールの村上菊一郎訳『散文詩』、菱山や村上の詩集が続いている。これらは未見であるけれど、おそらく『若きパルク』と同様に瀟洒な装丁だと想像がつく。

 しかしこの青磁社と発行者の山平太郎のことだが、長きにわたってプロフィルがつかめないでいる。先年出版者と本をめぐって、書影を豊富に掲載した特集『日本オルナタ出版史1923−1945ほんとうに美しい本』 (『アイデア』354、誠文堂新光社)を恵贈され、青磁社と山平太郎への言及もあるのではないかと期待しながらページを繰ったのだが、残念ながら出てこなかった。このような特集を組むのであるから、知らないはずもないので、やはり私と同様にアウトラインがつかめないことによっているのだろうかと思われた。
日本オルナタ出版史1923−1945ほんとうに美しい本

 それからもうひとつ青磁社については気になることがあって、それは昭和十八年の折口信夫の『死者の書』 同二十二年の釈迢空名義の長歌集『古代感受集』のことで、後者はその年の五月に印刷所が空襲を受けて失われ、戦後の占領下の二十二年に出されている。これは昭和十九年に青磁社が統合され、編集長となった鎌田によるものとされている。だがその『死者の書』も鎌田が企画編集したように考えられるのである。

死者の書・身毒丸(中公文庫)

 先述したように、青磁社はフランス詩の翻訳書を中心とする出版社で、国文学や折口との関係はうかがわれない。しかし鎌田と八雲書林の場合、前回既述したように鎌田と折口は短歌雑誌『日光』の同人だったし、八雲書林もまた国文学と歌集の版元であった。とすれば、統合や紙の問題が差し迫っていた八雲書林と鎌田が『死者の書』の企画統合が決まっている青磁社へ持ちこみ、刊行を進めたと見なしても不自然ではない。むしろそれがきっかけとなって、鎌田が編集長に就任することになったとも考えられる。

 折口の多くの謎を含んだこの小説は、近年安藤礼二によって『初稿死者の書』(国書刊行会)も出され、新たな読解と研究段階に入りつつある。だがまだ解明されたといえないのが本連載104の、『世界聖典全集』と折口の関係で、『死者の書』はこの全集の『埃及死者之書』(田中達訳)の挿絵を表紙の装丁としている。これは折口の指定で、青磁社の山平太郎が手がけたのであろうか。
初稿死者の書 世界聖典全集 『世界聖典全集』

 最近になって、急逝した鷲尾賢也の歌人としての特集『小高 賢』を恵贈されたのだが、この出版社が青磁社で、どのような経緯と事情があったのかは不明であるけれど、まだ出版社として健在であることを知らされた。青磁社のHPはこちら
小高 賢

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