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古本夜話394 小池四郎とクララ社

前回少しふれたように、矢川澄子『野溝七生子というひと』を彼女の評伝というよりも、野溝と鎌田敬止と出版の物語のように仕立てたのは、前提としてひとつの出版社をめぐる物語があり、それが範となっていたからだと思える。しかもその出版社はクララ社といって、野溝にとっても矢川にとってもきわめて身近な存在だったし、それを立ち上げた小池四郎は明治二十五年生まれで、鎌田と同世代であった。矢川はその小池とクララ社のことをも喚起させるように、野溝や鎌田の写真、後に同じく野溝の未刊著作として展望社から『眉輪』とともに『アルスのノート昭和二年早春』として刊行される原本の表紙、及びクララ社の本の書影を並べて掲載している。
眉輪 出版人物事典 『アルスのノート昭和二年早春』

矢川と野溝の最初の出会いは目白のクララ社であり、矢川は次のように回想している。

 クララ―そこは個人出版社クララ社であり、クララ洋裁学院発祥の地でもあり社会民衆党の代議士だった伯父の政治事務所でもあった。そしてなにより幼い者たちにとっては、大好きな「クララ伯父ちゃん、伯母ちゃん」、すなわち小池四郎・元子夫妻が父母同様にわたしたち姉妹をいつくしんでくれる、なごやかな生活協同体でもあった―

これには少しばかり説明を加えなければならない。野溝七生子の姉志免尾(しめお)と金沢高女で親交のあった宮野倫子が小池駿一と結婚する。その小池の家にしめが大正十年に東洋大学に入学した七生子の下宿を頼みにきて、小池一家と暮らすようになった。そこに昭和の初め頃から鎌田が出入りし、後に二人が共同生活するきっかけとなる。そして駿一の末弟の小池四郎が澄子の伯母の元子、その妹の民子が矢川とそれぞれ結婚し、小池と矢川一族は縁戚関係となり、そこに姉との関係から野溝七生子も必然的に加わるという構図が形成されたのである。

小池四郎はクララ社も含んで、『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)に立項されているので、それを引いてみよう。
近代日本社会運動史人物大事典

小池四郎 こいけ・しろう 1892.3.21−1946.3.11(中略)
 1917(大正6)年東大工学部を卒業。鈴木商店に入社、24年に退職し、社会運動に入る。上京して出版社クララ社(のちの社会民衆党の出版機関)を創立。26年社会民衆党の創立に参加。(中略)32年の総選挙で初当選。同年5月、社会民衆党を脱党、赤松克麿らと日本国家社会党を結成、(中略)同党が日本主義派と国家社会主義とに分裂、前者を率いて、34年1月日愛国政治同盟へと改組し、総務委員長となり、典型的な社会ファシストの道をたどる。

矢川の小池に関する記述と異なる部分もあるし、さすがに彼女の筆先も「クララ伯父ちゃん」の「典型的な社会ファシスト」の側面には及んでいない。それは『野溝七生子というひと』自体がひとつのファミリーロマンスとして提出されているからだ。それゆえに七生子がクララ社のアルバイトにきて、小池の妻の元子と親友になったこと、その元子が本格的に洋裁を学び、そこにクララ洋裁学院の看板を掲げたこと、さらにその庭続きに矢川夫婦が、次女澄子も含む三人の女児を連れて移ってきたことなどが書きこまれ、学院の卒業式の写真までも収録に及んでいる。

そしてまた当然のことながら、彼女の手元にあるクララ社の出版物の四冊も挙げられていく。それらはウィットウォース著、馬場二郎訳『ニジンスキーの舞踊芸術』、やはり馬場訳『ショパンの日記』、次の二冊は小池自らの訳によるウエルズ『汝ノ靴ヲ見ヨ』、グリュンベルグ『母様、僕どうして生まれたの?』である。

最初の『ニジンスキーの舞踊芸術』は四十年ほど前に古書展で一度だけ見ているが、矢川がいうように大判のきれいな造本で、ニジンスキーの舞踏場面が何枚か原色版で入っていたことを記憶している。なおこの日本における最初のニジンスキー文献は、後に『ニジンスキーの芸術』現代思潮社、昭和五十二年)として復刻されている。
ニジンスキーの芸術

私も一冊だけクララ社の本を持っているが、それは翻訳ではなく、小池四郎著『階級論』で、「民衆政治講座」No21として、昭和五年に出ている。巻頭に「著者の近影」も掲載され、その若い整った風貌は鎌田と共通する雰囲気があるようにも思える。そのことはともかく、この『階級論』はマルクス主義を参照とした修正階級論、もしくは社会民主的階級論の啓蒙書といったところで、この一冊も含む薄い四六版シリーズ「民衆政治講座」の主張が社会民衆党のスローガンでもあったのだろう。ちなみに奥付広告にはやはり小池の『産児調節の理論と実際』が掲載され、小池が当時のフェミニズムと時代の要請でもあった産児制限問題にも取り組んでいたとわかる。

奥付の発売所の住所を確認すると、東京都市外高田町上り屋敷一一一七番地とあり、これが矢川が述べている、懐かしい記憶に包まれた目白の地、小池と矢川一族、さらに野溝と鎌田のアルカディア、彼女が子供の眼で見た「なごやかな生活協同体」が存在していたトポスなのである。

矢川は『野溝七生子というひと』を平成二年に刊行している。七生子の九〇歳の死はその三年前の昭和六十二年であり、そのサブタイトルとした最終章「散(あら)けし団欒(まどい)」のエピグラフ斎藤史の「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずもや」を置いている。それはひとつのレクイエムでもあり、かつてのアルカディアの喪失、野溝や鎌田の死の他にも様々な思いがこめられているようにも感じられる。そのことを記すために、もう一編矢川のことを書かなければならない。

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