出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話395 矢川澄子、谷川雁、矢川徳光

これは私たちの時代の出来事に属するし、戦後編でと考えていたのだが、三回にわたって矢川澄子『野溝七生子というひと』に言及し、そこに矢川自身の「散(あら)けし団欒(まどい)」とその投影をも見たばかりなので、ここで続けて書いておくべきだろう。

私が矢川の名前を知ったのは昭和四十年代半ばで、グスタフ・ルネ・ホッケの名著『迷宮としての世界』(美術出版社)の訳者としてだった。共訳者は種村季弘であったけれど、彼女が澁澤瀧彦の夫人だったこと、しかもすでに澁澤と離婚していたことも、当時はまったく認識していなかったはずだ。
迷宮としての世界

それからこれは最近になってだが、内藤三津子へのインタビュー『薔薇十字社とその軌跡』の中で、内藤が企画し、澁澤が編集長を務めた『血と薔薇』の創刊も、彼の矢川との離婚後における無聊を慰めるという事情にもよることを、あらためて知ったのである。二人の離婚には様々な事柄が絡んでいるにしても、直接の原因は矢川の谷川雁との関係によるものとされ、後に彼女は谷川の暮らす信州の黒姫に住居を構えるようになる。
薔薇十字社とその軌跡 血と薔薇  

近代文学史において、様々な所謂三角関係が語られてきたけれど、矢川と澁澤と谷川の場合は奇妙な印象を覚えざるをえない。しかもそれが『血と薔薇』の創刊と無縁ではなかったことも。澁澤と谷川のイメージは、矢川の言葉からしても兄=少年と父の違い、あるいはまたリベラリストとそれこそ革命の「工作者」の違いすらも伴っているからだ。

そのような矢川にとっても相反する関係のイメージは『野溝七生子というひと』に投影され、野溝や鎌田のことに仮託して、自らのことを語っているように思える。それはもちろんキャラクターと役割分担は異なっているが、野溝と鎌田の共同生活がそのまま、矢川と澁澤のイメージと立場に置き換えられるのではないだろうか。

出版をめぐる共同生活と定かでない晩年の別離もまた重なるように描かれているのではないだろうか。もっとも矢川たちは翻訳をめぐってといえるだろうし、澁澤名義の翻訳、例えばレアージュ『O嬢の物語』 なども矢川の手になるものだと後年になって明らかにされている。
O嬢の物語

それならば、矢川にとっての谷川のイメージとはどこから派生しているのか。それは彼女が著わした『「父の娘」たち』(新潮社)というタイトルに象徴されているのではないだろうか。そこで彼女は典型的な「父の娘」として生き、創作へと向かった森茉莉アナイス・ニンを論じ、自らもまた「父の娘」たちの一人であることを告白しているように思える。
「父の娘」たち

矢川にとってその「父」とは前回ふれた「社会ファシスト」と称された小池四郎、そして実父に他ならない矢川徳光をさしていると考えられる。だがこの二人にしても、『野溝七生子というひと』以前にはほとんど語られていなかったし、彼らの存在はここに至って初めてカミングアウトされたとも思える。前回小池について、『近代日本社会運動史人物大事典』における立項を紹介しておいたが、矢川も朝日新聞社『現代人物事典』に立項されているので、それを要約しながら引いてみる。

現代人物事典

矢川徳光 やがわ・とくみつ
教育学者(ソビエト教育学専攻)。民間在野でマルクス主義の立場から教育学を開拓した。1900(明治33)年11月26日長野市に生まれる。山口高校を経て26年京大文学部英文科卒業。日大工学部予科教授を経て、新興教育運動に参加、ソビエト教育理論や実践を紹介する。戦時下は大日本青少年団などに勤務、かたわら科学物の翻訳で生活を送ることになる。戦後は民科に属し、数多くの翻訳をすすめる。(中略)50年の『新教育への批判―反コア・カリキュラム論』(刀江書院)の刊行によって、矢川の位置が定まった。これは、戦後の経験主義に対するマルクス主義教育学からの初めての系統的批判の展開であり、民間教育運動の発展に大きな理論的寄与を果たすことになる。また、この年『ソヴエト教育学の展開』を刊行し、ソビエト教育学研究の基礎をすえる。以降矢川は日教組教研集会の講師などをつとめながら、せきを切った勢いで研究を発表する。(後略)

これらの記述からわかるように、戦前もさることながら、戦後はマルクス主義に基づくソヴエト教育者のイデオローグであり、ソヴエト教育学研究会の会長にもつき、また日教組に対しても強い影響を与えた人物だったとわかる。そのことを示すように、青木書店から『矢川徳光教育学著作集』六巻が刊行されている。また彼が主として編集翻訳に携わり、六〇年代に出た明治図書のソヴエトの教育学者『マカレンコ全集』もあり、これらの前半の巻は七刷を重ねていて、ソヴエト教育学の立場にある矢川たちの存在感が並々ならぬものだったと推測がつく。
そのような父の戦後教育界における華々しい活動のかたわらで矢川の澁澤との結婚があり、彼の執筆と翻訳の助手的立場も引き受け、『悪徳の栄え』猥褻容疑による「サド裁判」も始まっていく。そして昭和三十九年には矢川のいう「少年と少女との、最良の日々の達成」としての澁澤の『夢の宇宙誌』が刊行に至る。それから様々な出来事についての贅言は慎むが、離婚までに四年があったことになる。ただ離婚後、澁澤に続いて、谷川も見送り、年月ははっきりしないが、父の徳光も亡くなったことだけは記しておこう。
悪徳の栄え夢の宇宙誌

ここで『野溝七生子というひと』に戻ると、その最後の章「散けし団欒」において、斎藤史の「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずもや」が引かれ、それが鎌田の自死と野溝の死に対するレクイエムでもあると前回既述しておいた。ところがそれから十数年後に、鎌田と同じく矢川自らも黒姫の自宅で縊死に至っている。享年七十一歳。そして斎藤の歌が矢川にも向けられていたのではないかと思い知らされたのである。

なお矢川の死と同年の二〇〇二年に『ユリイカ』10月臨時増刊号が総特集「矢川澄子・不滅の少女」を組み、矢川家族の写真を含む「アルバム・矢川澄子」、「矢川澄子年譜初稿」「書誌・著作翻訳年表稿」を掲載収録している。単行本化されていないのが残念だが、矢川についての不可欠の文献資料であることを付記しておく。
「矢川澄子・不滅の少女」