(モディアノが「日本の読者の皆さんに」で引いている心を打たれた書評の一節)
パトリック・モディアノの小説は一九七〇年代から翻訳され、『パリの環状通り』(野村圭介訳)、『暗いブティック通り』(平岡篤頼訳、いずれも講談社)を始めとして、『ある青春』(野村圭介訳、白水社)、『イヴォンヌの香り』(柴田都志子訳)『サーカスが通る』(石川美子訳、いずれも集英社)などが刊行され、 原タイトルをVilla triste (悲しき別荘)とする『イヴォンヌの香り』はパトリス・ルコントによって映画化もされている。またモディアノはパリ郊外を出自とする作家であることから、堀江敏幸の『郊外へ』でも未訳の『特赫』が紹介され、この小説もモディアノ特有の失われた過去、それも弟との郊外での生活を描いていることを教示してくれた。
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しかしここで取り上げる一九九八年の邦訳『1941年。パリの尋ね人』(白井成雄訳、作品社)は原タイトル Dora Bruder (ドラ・ブリュデール)からわかるように、これは女性の名前であり、実際にドラを追うことが自らの過去を探ることに重なり、彼の小説とテーマは共通するにしても、紛れもないノンフィクションとなっている。それに加え、この著作はパリ郊外のドランシーというトポスの過去をも否応なく浮かび上がらせてしまうのだ。
その事実にふれる前に、『1941年。パリの尋ね人』を簡略にたどってみる。一九八八年にモディアノはドイツ占領下にあった四一年十二月三十一日付の新聞『パリ・ソワール』をめくっていたところ、ドラ・ブリュデールという十五歳の少女の「尋ね人広告」を発見する。それを出したのは彼女の両親で、その住所はモディアノも昔からよく知っているパリ18区ポルト・ド・クーニャンクールのオルナノ通りだった。それをきっかけとして、彼は八年間にわたり、少女ドラの行方を探し求めることになる。まず両親とドラがこの地区の安ホテルに住んでいたことをつきとめ、その地区のいくつかの小学校の記録を調べたが、ドラの名前は学籍簿には残っていなかった。それでもモディアノは忍耐強く彼女の痕跡を求め、その誕生日が一九二六年二月二十五日、出生地がパリ12区だと判明する。そこで彼女の出生証書抄本をとると、父エルネストは一八九九年ウィーン生まれの工員、住所はパリ郊外のセヴラン市リエジャール通りと記されていた。その地域は二十世紀初頭に進出してきた大会社である「ウェルスティングハウス・ブレーキ工場」を中心に成立した労働者の町で、ドラの父は当時その工員だったと推測される。
ドラの父エルネストはオーストリア帝国東部諸地方出身のユダヤ人だったが、一九一九年のオーストリア帝国の崩壊によって避難民となり、フランス外人部隊に入り、モロッコなどでの戦いに駆り出されている。そして二十五歳で五年間の雇用契約から解放され、傷痍軍人としてパリに戻ったもののフランス国籍は与えられず、年金ももらえなかった。二四年にロシア出身のユダヤ系で、家族とともにブタペストからパリにやってきた十七歳のセシルと結婚し、ドラが生まれたのである。
モディアノはこのような「この世に生きた証拠などろくに残していない人たち」、そして「パリのいくつかの通りや、二、三の郊外の風景から切り離して浮かび上がらせることができない人たち」を探し求め、根気強くそれらの痕跡を追っていく。したがってそれはパリ郊外をめぐる探索でもあり、モディアノ提供の写真の他に、訳者による風景と建物写真の挿入が、モディアノの探索と視線を具体的に表わしているような効果を上げている。
時代は飛んで、一九四〇年五月九日、十四歳のドラはキリスト教系寄宿学校「聖マリア学院」に登録されているのだが、その寄宿生名簿には「退寮日時・理由:一九四一年十二月十四日、脱走による」との記載がある。両親がドラを寄宿学校に入れた理由について、モディアノはホテルの一室に三人で住むことの難しさ、及び夫妻が「ドイツ帝国国民」で「旧オーストリア国民」という資格だったことによる収容の危険性ゆえではないかと述べている。
ドラはこの規則が厳しい寄宿学校でほぼ一年半を過ごした。その住所がユゴーの『レ・ミゼラブル』(豊島与志雄訳、岩波文庫)において、コゼットとジャン・ヴァルジャンが逃げこんだ修道院と同じ番地であったという偶然の一致にモディアノは驚きを覚え、さらにドラに執着する要因ともなったのだが、もはや学院を偲ばせるものは何も残っていなかった。おそらく十二月十四日は日曜日で、ドラは両親に会いにいき、戻ってこなかったことから、「脱走」と記されたのではないかと彼は推測する。四一年の師走はパリにとって最も陰鬱で息苦しい時期で、ドイツ軍によるユダヤ人の監視が厳しくなり、寄宿学校においてもドラに「脱走」を促す何かが起きていたのかもしれない。父親はドラの「脱走」を心配し、クリニャンクール地区警察署に失踪の届け出を出し、新聞に尋ね人広告を出すに至っている。状況からしても、心配と苦しみの果ての決断だったと想像される。
長い間、モディアノはドラの十二月十四日の脱走と尋ね人広告以外のことしか知らなかった。それからかなり経って、脱走の八ヵ月後の四二年八月に彼女が「レ・トゥーレル収容所」から「ドランシー収容所」に送られていたとわかった。前者はユダヤ人女性の「拘禁センター」であり、ドラはフランスのユダヤ人問題担当警察によって町中で捕えられ、レ・トゥーレル送りとなったのだ。
父のエルネストも四二年三月に逮捕され、ドランシー収容所に強制収容された。その翌月にドラが母親宅に戻ったとクリニャンクール警察署記録簿に見えるが、四ヵ月の失踪が何であったかはわからない。モディアノはドラのことを書き続けながら、かつて読んだフリード・ランペというドイツの作家の仏訳された小説『夜の果てに』を想い浮かべる。同じくユダヤ系でもあるモディアノは、同じようなタイトルのセリーヌの書名を挙げることを拒んでいるのだろう。ランペは四五年五月にドイツ郊外でソ連軍によって殺されていた。その小説のタイトルと死はドラの失踪に連なるものがあったからだ。そしてさらにアメリカのユダヤ人関係の六月付資料から、ドラが母親のところからまた脱走して捕まり、送り返されたこと、度重なる脱走により、少年少女更生院送りが指示されているとわかる。六月以降、ユダヤ人は「黄色い星」の着用を強制され、ドラはそれを着けていなかったので、街で捕まったのではないか。そしてレ・トゥーレルに送られ、そこに収監され、彼女を含めた三百人のユダヤ女性が八月にドランシー収容所へと移送されていったのである。
そこでドラは三月から収容されていた父と再会し、九月にアウシュヴィッツに送られ、母もまた翌年一月に同じ道をたどることになる。モディアノはそこまで突き止めたが、ドラの「脱走」の真実と冬の数ヵ月の日々の生活は永久にわからないと思う。そして彼はこのノンフィクションを次のような一文で結んでいる。
それは彼女の秘密なのだ。哀れな、しかし貴重な秘密であり、死刑執行人も、いわゆる占領軍当局も、警視庁留置所も、獄舎も、収容所も、歴史も、時間も(私たちを汚し、打ち砕くもろもろのすべてのものも)、彼女から奪い去ることができなかった秘密であろう。
ここでようやくパリ郊外のドランシーにふれることができる。ゲルハルト・シェーンベルナーの『黄色い星』(池田芳一他訳、自由都市社、新版松柏社)は一九三三年から四五年にかけてのユダヤ人虐殺写真ドキュメントであり、帯文に見えるように、紛うかたなき「死者の書」だといっていい。なおモディアノの処女作『エトワール広場』の原タイトルはLa place de l'étoile でこれには「星をつける場所」、すなわち「黄色い星」の意味も含まれている。『黄色い星』の「追放」と題された章の中に「ドゥランシィの子ら」という一ページがあり、バリ在住の無国籍ユダヤ人がフランス警察当局によって七月に逮捕され、八月に多くの子供たちも含め、輸送列車で、最寄りのル・ブルジェ・ドゥランシィ駅からアウシュヴィッツ強制収容所に向けて送られていった報告と記録が掲載されている。ドラと父もこの中にいたのだ。
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このドゥランシィ=ドランシーにモディアノも当然のことながら赴いているはずだが、なぜか彼はその郊外の町を描いていない。『1941年。パリの尋ね人』の小説化とされる『新婚旅行』は未読なために、まだそのことに関して確かめていない。ただその代わりのように、訳者の白井がドランシーに関する長い訳注をつけ、その収容所跡にある鎮魂碑と、現在は住宅として使われている旧収容所建物、及び鎮魂碑の後ろに置かれたユダヤ人をアウシュヴィッツに移送するために使われた家畜輸送用貨車の写真を掲載している。そのようなドランシーへの言及は堀江の『郊外へ』にも見出すことができ、シテ・ドゥ・ラ・ミュエットという戦前の郊外団地、及びその収容所で詩人のマックス・ジャコブが死んだことなどにふれている。
それらを参照しながら、ドランシーについて書いておく。ドランシーはパリから北東十二キロほど郊外にある町で、第二次世界大戦前には田園都市とニュータウン構想の地とされ、一九三五年に団地が建設された。これは両大戦間におけるフランス最大級の規模の住宅開発計画だったが、三九年にコミュニストたちの収容所となり、四一年以降はユダヤ人収容所と化したのである。ここに収容されたユダヤ人は十万人に及び、そのうちの八万人がアウシュヴィッツなどの強制収容所へと送られた。白井が先述の鎮魂碑に刻まれた文章を引用しているので、それを抽出してみる。
一九四一年八月二十日、五千人のユダヤ人がパリで逮捕され、この場所に集められた。“死の収容所の待合室” ドランシー収容所のはじまりである/十万人近い老若男女がここに強制収容され、大部分はアウシュヴィッツに送られた/一千五百十八人だけが生きて帰ることができた(……)
そしてこれに『旧約聖書』の「エレミヤ書」の次のような一節が添えられている。「すべての道行く人よ、わたしに下された苦しみのような苦しみがあるだろうか、尋ねてみよ」という一節が。堀江も『郊外へ』で、白田の訳文と同様の一文を引用しているけれど、同じ鎮魂碑によるものなのかは判断できない。
いってみれば、パリ郊外のドランシーは田園都市プランから始まり、それがニュータウンの団地開発へと向かったが、その後はコミュニスト、続いてユダヤ人たちの強制収容所と化したことで、二十世紀前半における郊外の明暗、ポジとネガをともに体現してしまったことになろう。定かではないけれど、白井や堀江が記しているドランシーの現在の姿もそれをずっと引きずっているように思える。