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古本夜話406 前田一『サラリマン物語』、長谷川国雄『サラリーマン』、季節風書店『100万人のよる』

本連載403の片岡昇の『カメラ社会相』が三一書房の『近代庶民生活誌』の第七巻『生業』に抄録されているとことを既述したが、同巻には前田一の『続サラリーマン物語』も収録されている。これは昭和三年に東洋経済新報社刊行の、同じく前田の『サラリマン物語』の続編で、正編が売れたために同年に続けて出され、この二冊が当時のベストセラーとなることによって、「サラリマン」もしくは「サラリーマン」という言葉が用語として定着したと伝えられている。

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なお補足しておけば、正編は「サラリマン」、続編は「サラリーマン」という表記になっていて、『サラリマン物語』の奥付を見ると、昭和三年三月二十日発行、同三十日四版とあり、確かに売れていたことを示している。それに乗じてか、翌年には『職業婦人物語』の刊行にも及んでいる。なお続編の収録理由はサラリーマンの会社外での生態への言及が多いゆえとされる。

『生業』の「解説・総説」である渋谷重光の「昭和初期における『サラリーマン』層の位置と意識」を参照すると、大正時代には「俸給生活者」、あるいは「月給取り」という呼称が一般的だったが、大正九年にそれらが一五一万人、昭和五年に二〇五万人と増加していく過程で、サラリーマンという言葉が定着していったことになる。それは近代日本における資本主義体制の成長をも示しているし、昭和初期に至って、都市社会の中枢を占める層として出現してきたのである。もちろん本連載366で少しふれたように、昭和四年に青野季吉の『サラリーマン恐怖時代』が出され、また小津安二郎の『大学は出たけれど』が撮られていることも承知しているが、それらはひとまず置いておく。
[f:id:OdaMitsuo:20140704134333j:image:h120] 大学は出たけれど

そのサラリマン層について、前田は『サラリマン物語』の「自序」の冒頭で、次のように述べている。

 サラリマン、それは―俸給生活者、―勤め人―月給取り―洋服細民―そして腰弁、―とその名称が何であれ、正体を洗へば、『洋服』と『月給』と『生活』とが、常に走馬灯のやうに循環的因果関係をなして、兎にも角にも、『中産階級』とかいふ大きなスコープの中に祭り込まれてゐる集団を指したものに違ひない。

つまりここに戦後のサラリーマンをベースとする中流階層社会の始まりが見られるといってもいいかもしれない。ちなみに昭和十六年になると、その数は四〇七万人に至り、その家族も含めれば、全人口の16.7%に達したとされる。

著者の前田は明治三十八年佐賀県に生まれ、大正十年東京帝大卒業後、北海道炭礦汽船に入社し、昭和四年に労使問題研究のためにヨーロッパへ留学し、その途中政府嘱託として国際労働会議にも出席している。いわばエリート社員の道をたどり、戦後は労務担当取締役を経て、日経連の専務理事に就任している。前田が続けて刊行した三冊はそのように命名されているし、現在復刊もされているけれども、昭和初期におけるサラリーマンや職業婦人の考現学とよんでいいし、それらは近年の原克の『サラリーマン誕生物語』『OL誕生物語』(いずれも講談社)などへとも引き継がれていよう。

サラリーマン誕生物語 OL誕生物語

さらに記しておくと『サラリマン物語』は平凡社の『発禁本3』(「別冊太陽」)に、私が所持するものとは異なる書影が掲載されているが、発禁理由にはふれられていない。どうして発禁処分を受けたのだろうか。
発禁本3

それはともかく、このような前田の『サラリマン物語』の特色は「月給」にあり、各会社の大学別、学歴別、職能別の給料比較表が掲載され、それにボーナスや退職金などのリストを加えれば、半分以上がサラリーマンの収入問題に当てられ、安定しているかどうかは断定できないにしても、農林漁業や自営業に比べ、固定した「月給」によるサラリーマンが「中産階級」を占めていく必然性をトレースしているように思える。

その前田の著作がベストセラーになる一方で、昭和三年に長谷川国雄によって雑誌『サラリーマン』が創刊される。長谷川に関しては『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

出版人物事典

 [長谷川国雄 はせがわ・くにお]一九〇一〜一九八〇(明治三四〜昭和五五)自由国民社創業者。東京生れ。東京高等工芸機械科卒。一九二八年(昭和三年)サラリーマン社を創業、経済雑誌『サラリーマン』を創刊。三七年(昭和一二)治安維持法で投獄された。敗戦直後、株式会社自由国民社と改称、「読者の要望を代表して記者がつくる新しいジャーナリズム」を標榜、戦後の新事態を知りたいという読者の要望を編集の柱に、四八年『現代用語の基礎知識』を創刊、わが国初の新語新知識の年鑑として成長させた。(後略)
現代用語の基礎知識

ここには記されていないが、長谷川は野依秀市の麾下にあって、『実業之世界』の記者だったはずで、『サラリーマン』は大宅壮一をブレインにして、『東洋経済』『実業之日本』『ダイヤモンド』の向こうを張るサラリーマンのための雑誌として創刊されたのである。しかし前田の本が売れたようには売れず、昭和十一年四月号で廃刊になっているという。

しかしその後の長谷川の治安維持法によると投獄とはどのような事情ゆえなのか、これは不明である。実は前述の『発禁本3』に大衆経済雑誌『サラリーマン』の昭和七年六月号が、五・一五事件を肯定示唆したとして発禁処分を受けたとの言及、またその表紙には長谷川国雄編集とあり、執筆者には大宅壮一の名前も見えている。このような出版にまつわる原因で、長谷川は投獄の憂き目を見たのであろうか。

その後判明したことを記しておけば、長谷川の投獄は『日本資本主義発達史講座』のメンバーである講座派への弾圧としての、コム・アカデミー事件での検挙によっているようだ。これも長谷川の多様なプロフィルのひとつといえよう。

また長谷川の戦後についても付け加えておけば、彼は自由国民社の別会社として季節風書店を設立し、昭和三十一年に『100万人のよる』を創刊している。これは「夜の文芸春秋」と自称するポルノ雑誌で、そのエキスは伴田良輔編『100万人のよる伝説』(自由国民社)からもうかがわれる。前田の『サラリマン物語』のベストセラー化に触発され、創刊された『サラリーマン』から始まり、『現代用語の基礎知識』『100万人のよる』と続いていく長谷川の雑誌系列は、一巻して「中産階級」たるサラリーマンを読者として想定し、出されてきたように思われる。

100万人のよる伝説

なお『続サラリーマン物語』に関しては、ブログ「本を見て森を見ず」に詳しい言及があることを付記しておく。

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