前回記しておいたように、内務省地方局有志編纂『田園都市』が刊行されたのは一九〇七年のことだった。その当時、柳田国男は農商務省の若手官僚として全国農事会幹事を務め、『柳田国男農政論集』(藤井隆至編、法政大学出版局)や『時代ト農政』(『柳田国男全集』29、ちくま文庫)などに収録される講演や講義を行なっていた。
これも一九〇九年に刊行された田山花袋の『妻』 の中で、柳田をモデルとする大学生の西が歌に訣れを告げ、農政学に打ちこむと語っていたように、柳田は農政学に専念するつもりだったし、一〇年には『遠野物語』の出版に至っていたけれど、同じ版元の聚精堂から『時代ト農政』を上梓していた。そのような柳田の農政学に対する傾倒、及び内務省と農商務省といった省の違いはあったにしても、同じ官僚というポジションから考え、柳田が『田園都市』を読んでいなかったとは思われない。それどころか、献本されていた可能性が高い。だが『時代ト農政』などでもふれておらず、『定本柳田国男集』にも見出せないし、それはハワードの『明日の田園都市』についても同様である。
柳田が田園都市に言及するのは『田園都市』が出版された二十余年後であり、それは二九年に朝日新聞社から出された『都市と農村』(『同全集』29)においてだった。これは私見によれば、三一年に同じく朝日新聞社刊行の『明治大正史世相篇』(講談社学術文庫)と対で読まれるべきだと思われる。
柳田国男研究会編著『柳田国男伝』(三一書房)において、『時代ト農政』刊行時の柳田の立場は官僚にもかかわらず、現実的な農民の生活と経済の側にあり、中央集権的にして画一的な農政や地方改良、町村是正運動に対する批判者だったとされ、そこには「地方改良の本尊」としての井上友一の名前も挙げられている。前回既述したように、井上は『田園都市』の編纂者の一人に他ならない。ここでは柳田の官僚としての農政への異端的主張にはふれないが、内務省の井上が編んだ『田園都市』は当然のことながら柳田が認める地方改良運動ではなかったのである。そのような視点で『時代ト農政』を読んでみると、序文に当たる「開白」のところに「地方到る処にそれぞれ特殊なる経済上の条件があって流行や模倣では田舎の行政はできぬ」という言葉が見つかる。これこそ柳田からすれば、「流行や模倣」でしかない『田園都市』への批判であり、それゆえに柳田は意図して黙殺し、それが二十年余に及んだと考えていい。もう少し深読みすれば、『都市と農村』というタイトルは『田園都市』のキャッチコピー「田園都市」「花園農村」から「田園」と「花園」を外し、柳田が日本の現実の『都市と農村』の姿を提出したと見なすこともできる。
それは第一章「都市成長と農民」の「一 日本と外国の差」の書き出しにも表われている。
書物で学問をしようとする者は、よっぽど用心せぬとたちまち概念の虜になってしまう。ことに我々常民の先祖はずいぶんよく苦しみ、また痛切なるいろいろの実験をしたが自身ではそれを書き残しておいてくれなかった。今ある彼等の生活の記録は、たいていは外から観ていた人の推察に基いている。それが果して地方地方の真状と一致するや否や。それによって議論の価値に大いなる相違があるわけである。(中略)都市と農村の将来の関係がいかにあるべきかは、大切な実際問題である。弘く個人の立場を見極めた上でないと、国の政策を決定することもできないだから新しい意見の当否を決する前に、まず事実を精確にする必要があるのである。
続けて柳田は漢語の都市に当たる支那の商業地区や西洋の町場が高い障壁を有して郊外と遮断し、農村と対立する要素を含んでいたことに対し、「日本の都市」は異なり、外国の例を引くことには警戒が必要だと述べている。そして近世の江戸や大阪にしても、市民の多数は農村の出身で、都市も「農村の事業の一つ」として造型されたことなどを指摘している。
このような日本の都市と農村の関係を前提にして、柳田は第二章農村衰微の実相、第三章 文化の中央集権へと論を進め、第四章町風田舎風へと至り、「町風の農村観察」が取り上げられる。それはふたつあり、ひとつは農村の生活の安らかさと清い楽しさに向けての讃歌、もうひとつはその辛苦、窮乏、寂寞無聊への思いやりで、まったく異なる考え方が共存している。柳田はこのアンビバレンツな感情を、農村を故郷とする都市の人々が抱く「帰去来情緒」と名づけ、近代都市の村から出てきた新米住民の自然と生存の資源から切り離された心細さに端を発したものだと見なす。そうしてようやくここに「田園都市と郊外生活」が言及されるのである。
いわゆる田園都市の運動は、この意味において確かに新しい興味があった。(中略)そこで優しい理想を有った人たちが発起して、新たに空閑の野について、広々とした小都市を建設してみようとしたのである。個々の住民がおのおの平家を給せられ、その周囲に少しずつの庭園を持つことができれば、もちろんその理想は遂げられたのであるが、それは資本の問題でありまた職業の問題であって、旧国においてはそのような機会ははなはだ得にくかった。土地が十分に廉価でなければ、住民の経費が支えられず、そういう地方に突如として出現する一都市を、維持するだけの事業は見つからない。結局は慈善の寄付金、もしくは多分の公費を割いて、わずかに希望者の片端を満足させるのみで、その他は依然として野外の散歩くらいをもって、我慢をするの他はないのであった。
柳田は「旧国においてはそのような機会ははなはだ得にくかった」と断っているが、それは大正時代における武者小路実篤の新しき村のような試みもふまえた上で、日本の現在において田園都市計画は資本と職業、都市と住宅の問題から考えても不可能と述べているように思われる。
それを裏づけるかのように、柳田は西洋で田園都市が始まったのは「今から三四十年前の事らしい」が、日本もその頃から都市が成長し、農産物の自給と絶縁するに至ったこと、それに「帰去事情緒」と人口増加が加わり、「いわゆる郊外の発展が日本の都市の、新たなる一つの特徴となったこと」を挙げ、それは田園都市を形成するものではなかったとも述べている。
そしてまた農村のほうからすれば、「今の郊外の自称田園都市」は理想でも希望でもない。外部から入ってくる資本と知能、新しい文化と常識は農村における生活技術と対立するものであり、都市と農村の生活様式は調和を拒んでいる。それゆえに田園都市なるものも「全体において十分ある異国意匠の踏襲にもあらず、また長期の実験に基いた綜合でもなくして、単なる少数者の思い付きを、流行として早く世に布かんとするもの」のひとつと見なされることになる。
これらの『都市と農村』の中に見られる柳田の視点や文言は、先の『柳田国男伝』などにおいて、小作人や小作争議問題に表出しているマルクス主義者の見解に対する批判と目されてきた。だがこのように、それを田園都市批判に当てはめることもできるのではないだろうか。
それでは柳田の歴史的視点と現在的分析からの主張を一言に集約してしまえば、次のようになろう。日本の都市と農村の関係は、外国の例に見られる単純な都鄙問題ではない。それゆえに都市から見た農村のイメージの確立ではなく、何よりも都市の成長に見合った農村と農業の自立が目ざされるべきである。その具体的提案が『時代ト農政』や『都市と農村』の同巻に「中農養成策」(『柳田国男全集』29)として収録されている。
そのコアは次の一言に尽きるだろう。「日本事業の農業に対する予が理想は今少し大胆なるものなり。予はわが国農戸の全部をして少くも二町歩以上の田畑を持たしめたしと考う」。「予が理想」といっているように、当時の農戸の平均田畑は一町歩強であるので、その倍ということになる。それは開墾と土地の分合交換、及び分割自由の制限、模範農場の創設、小農の他産業への転進のための地方工業の奨励、産業組合制の活用などによって推進される。これが明治三十七年、すなわち日露戦争と同年の一九〇四年に発表された柳田の「中農養成策」に他ならず、戦後の一九六一年に制定された農業基本法の原型ともいうべきものだった。
『時代ト農政』の刊行に先駆けて、このような農村と農業の自立を唱える柳田にとって、それこそ外国の「流行や模倣」に他ならない田園都市計画は認められるものではなく、『田園都市』を黙殺した理由がここに了解されるのである。それゆえに柳田の農政学そのものが理念的に田園都市計画と抵触してもいたが、戦後の農業基本法は結果的に郊外の開発の露払いともいうべき役割を果たし、混住社会を出現させ、さらには郊外消費社会を造型し、さらなる超郊外における巨大なショッピングセンターにまで及んでいったことになる。
そのように考えてみると、柳田が『時代ト農政』の「開白」の末尾に書き記した一句は、ベラミーの『顧みれば』というタイトルを彷彿とさせ、また意味深き警句のようにも思えてくる。今回はそれを引いて閉じることにしよう。