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古本夜話414 高浜虚子「杏の落ちる音」と内田魯庵「『杏の落ちる音』の主人公」

山路閑古が高浜虚子に俳句を学んだこととポルノグラフィの書き手であったことを知って、ひとつの連想が浮かんだので、それを書いておきたい。

高浜虚子に「杏の落ちる音」という短編がある。これは『ホトトギス』の大正二年一月号に掲載され、同六年に北原白秋兄弟が営む阿蘭陀書房から出された『十五代将軍』に収録された一編である。単行本収録にあたって、内田魯庵が「杏の落ちる音の主人公」、平塚白百合と林若樹が「杏の落ちる音について」を寄せ、この短編が他ならぬモデル小説で、周辺にかなりの波紋をもたらし、評判をよんだことがうかがわれる。虚子も『十五代将軍』の同六年六月十九日の「序」に、「緑雨の家の杏の落つる音を想像しつゝ」と書いていることから察すれば、収録の十五編の中でも、最も愛着を持っていたのだろう。

また近年になって、山口昌男『内田魯庵山脈』晶文社岩波現代文庫)の中で、「〈失われた日本人〉発掘」のアリアドネの糸としてこの「杏の落ちる音」をイントロダクションにすえ、ここから始めている。

内田魯庵山脈(晶文社) 内田魯庵山脈(岩波現代文庫)

私は以前から、この「杏の落ちる音」のモデルとされた人々の詳細な人物表を作った上で、「杏の落ちる音」のフィクションとノンフィクションの虚実、メタフィクション的構造、緑雨が聞き書きした「おしづ籠」と原名の「お千代船」、当時の古銭研究の挿入、緑雨の追悼としての江戸商標集『紫艸』(「集古叢書第二」)などを集大成した一冊を編んでみたいと夢想している。それは私が山中共古と『集古』の問題にすこしばかりかかわり、山中の『見付次第/共古日録抄』パピルス)を刊行しているからでもある。
見付次第/共古日録抄

残念ながら、「杏の落ちる音」は文庫には入っていないし、虚子のいくつかの全集か、もしくは各種の「日本文学全集」でしか読むことができない。この短編では主人公を緑雨と命名しているが、そのモデルは岡田紫男で、岡田については内田魯庵の「『杏の落ちる音』の主人公」の『思い出す人々』(春秋社、大正十四年、『明治文学全集』98所収、筑摩書房)収録に際しての「追記」における紹介などを主として、プロフィルを描いてみよう。ただし山口もふれているように、岩波文庫版には収録されていない。
明治文学全集 98

岡田は一部の好事家のみに知られていた人物で、美術学校を中退していたが、多芸多才で絵も描き、狂歌も詠み、狂言は素人の領域を越え、専門家をしのぐほどで、紫男というのは狂言師としての名前であり、本名は村雄だった。また彼は先代からの蔵泉家で、古泉の歴史や鑑識に詳しく、そのことから考古学にも通じ、全国古泉家の間に隠れもなかった。魯庵は書いている。

 幸か不幸か知らぬが、紫男は親から譲られた資産があつて盬酢の苦労がなかつたので一生を狂言と古銭の道楽に隠れて世間に現われなかつた。此の隠れたる才人の面影が虚子の筆に載つて世に伝へられたのは何かの因縁であらうし、江戸の通人を偲ばせる紫男の面影は虚子の作に由て後世に残るわけである。

杏の木は紫男の家にあり、それは牧野富太郎が標本に持ちかえったほどの変わり花を咲かせたという。また魯庵は言及していないけれど、魯庵や紫男は『集古』の同人であった。『集古』に関しては書いていくときりがないし、ここでは「杏の落ちる音」と紫男のことに限りたいので、とりあえず、山口の前述の著書に設けられた「野のアカデミー―集古会」や「和綴の雑誌―『集古』」などの章を参照してほしい。

さて「杏の落ちる音」の緑雨=紫男は一中節の稽古を受けていた。その師匠は宇治の名取りでお紫津といって、元は堀の芸妓だった。若い緑雨にとって年増の女の話す、見たことのない堀の町並、料理屋や待合に憧れる気持ちが強かった。彼の江戸趣味もそれをあおった。その稽古は一年余り続いたが、緑雨はお紫津の家によく出かけるようになり、また彼女の二人の妹と親しくなり、女たちの昔話を聞きながら、酒を飲んだりした。「緑雨がお紫津と下谷の宿屋に泊つたのは其頃の事であつた」。その頃お紫津は十六、七年連れそってきた高等官の男と切れ、緑雨の援助で芸者屋を出すことになった。また緑雨は「女の方を主」にした「閨情文学」という言葉をよく口に出し、それを書いていると言った。

 彼はもう半年も前から『おしづ籠』と題する一冊の書物の筆を取り始めて、此女の口から話されたその見聞の事実を細大となく書留めるのであつたが、今年になつてからの彼の筆は恐ろしい迄に其荒んだ心を見せてゐた。彼は此女の肉の方面に関する極めて大膽な告白を喜んで書きとめた。
 彼は熱心に話を聞いては筆記した。
 彼の健康はだんゞゝと損はれて来た。

その年の暮に緑雨はお紫津のところから、正月は家で過ごすために帰ったが、インフルエンザにかかり、「お紫津のために命を取られた」といううわ言をもらし、正月の十六日に亡くなってしまった。それは明治四十四年のことだった。「細君は遺言に従つて緑雨の書いたものを皆直樹に贈つた。其中に『おしづ籠』もあつた。其は仮綴にしてあつたのを直樹は表紙を買つて来て自分で製本した」と「杏の落ちる音」は結ばれている。

直樹は「杏の落ちる音について」を書いた林若樹がモデルであり、彼も『集古』の主たる同人の一人だった。

山路閑古もこの虚子の「杏の落ちる音」を読み、ポルノグラフィを書くべきモティーフを見出したのではないだろうか。

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